日本人ミニストリー

牧師:ジム・ラッセル

牧師:李志堅(David Lee)

704-847-8575

 
いのちの泉


                                                                                                                                                                                                                                2002年9月号

シャーロットの町は、どこを走っても、ピンク、白、藤色の百日紅の花が咲き誇り、長い間私達の目を楽しませてくれています。我が家の裏の方では小学校建設の工事が行われていて、ダンプトラックが良く走っていますが、日曜日なら工事も休むのではないかと、久し振りに朝歩きをしてみました。ちょうど太陽が昇ってくる頃だったのですが、太陽は厚い雲の向こうに隠れていて、雲を薄紅色に染め、その雲の中から放射状に何本もの光を放っていました。その光の力強いこと。一瞬、雲の後ろに神様がおられるのでは?と思ったほどでした。

皆様にはいかがお過ごしでしょうか?

すさまじいほど暑かった夏を無事乗り越えられましたか。ここ2、3日、恵みの雨を頂き、草木も大分元気そうになりましたね。長い夏休みも終わって学校も始まりました。子供さん達、元気に学校へ戻られましたでしょうか。9月28、29日のカーメルバプテスト教会の特別伝道集会は、オハイオから杉田政志牧師を迎え、「豊かな人間関係を築くために」と題してお話頂くそうです。どうぞ、一人でも多くの方がご参加下さいますよう、お祈り下さい。

 

 

 



聖書に現れる礼拝の起源はカインとアベルの礼拝です。創世記4:3~5を開いてみましょう。神様はカインの供え物と彼の礼拝を顧みられませんでした。アベルの供え物と彼の礼拝は神様の御心に適ったので顧みられました。その理由は何でしょうか。色々な理由がありますがカインはまことの礼拝を捧げたのではなく、アベルはまことの礼拝を捧げたのです。

まことの礼拝を捧げることは非常に大切です。神様は、霊とまことによって礼拝する者達を求めておられるのです。「神は霊であるから、神を礼拝する者も、霊とまことをもって礼拝すべきである。」(ヨハネ4:24)

霊とまことによって礼拝しなければ、神様は目を留められません。礼拝の本当の意味が分からない者達に礼拝を捧げることを押し付けてみても意味がなく、むしろ神様の栄光を遮る結果をもたらすこともあります。まことの礼拝の意味と必要性をしっかりと理解して礼拝しましょう。礼拝の対象は人間ではなく神様だけに礼拝を捧げることを認識しなければなりません。

今日はイザヤの礼拝を通して、まことの礼拝の模範を探してみようと思います。最初に礼拝の場所(1~3節)について考えてみます。神様を礼拝する場所はどこでしょうか。神様がおられる場所というならば、全て天地が礼拝の場所であります。しかし、神様は礼拝の場所を特別に指定しておられます。場合によっては野外で、職場で、家庭で、学校などで礼拝を捧げることがありますがそれはウィークデーの集会の性格を表わしています。主日の礼拝は神様の家・教会で捧げなければなりません。

今日の個所によるとイザヤは、ウジヤ王が死んだ年に神殿で礼拝を捧げました。1節に「私は主が高く上げられた御くらに座し、その衣の裾が神殿に満ちているのを見た」と書いてあります。神殿に神様の衣の裾が満ちて、神殿でまことの礼拝を捧げる時、神様はその礼拝を顧みられます。神様の衣の裾は、神様の憐れみを表わしています。新約で、その衣の裾に手が触れただけの者さえ癒され、問題が解決したのに、神殿に神様の裾が満ちて私達にかぶさり、覆って下さる時、どんなに大きな神の体験が私達の生活に起こるでしょう。

2節によると、神様の御座には、六つの翼がある天使達が神様を礼拝して仕えていました。神様は聖なる主ですから、二つの翼で顔を覆っているのは、神様と直接顔を会わせる者がいないことを意味しています。二つの翼で両足を覆っているのは、私達を隠して下さるという意味です。二つの翼で飛び交っていることは私達の奉仕の活発さを意味することです。私達は神様に礼拝を捧げる模範を天使から学ばなければなりません。

3節に、その天使達は互いに呼び交わし、唱えた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな万軍の主。その栄光は全地に満つ」 と天使達は、神の聖さと、その栄光を宣言しました。ですから、神殿は、神様の聖さと神様の栄光を宣言する場所にならなければならないのです。神様の礼拝堂は、聖別されて、神様の栄光を宣言して賛美する場所にならなければなりません。

4節に、「その呼ばわっているものの越えによって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。」この表現は神様の栄光を表しているのです。

二番目に、まことの礼拝と自己発見について、考えてみましょう。5節「その時私は言った。「災いなるかな。私は滅びるばかりだ。私は汚れた唇の者で、汚れた唇の民の中に住む者であるのに私の目が万軍の主を見たのだから。」まことの礼拝は、神様を見るだけでなく、自分自身の罪をも発見しなければなりません。神様の栄光を見たイザヤは、すぐ自分自身が神様の前に、どんな存在であるかを悟り、声を上げて悔い改めたのです。

神様の前で義である人は誰もいないのです。「全ての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっているのです。」 (ローマ3:23) 神様を見た瞬間、全ての人は自分の罪を悟らなければなりません。自分が罪人であるという事実を悟らない人々は、まだ神様を見ていない人達です。

イザヤは神様の栄光を見て、すぐ自分が罪人であることを悟り、その罪から来る報酬は死であるという事実をも悟って「災いだ。私は滅びるばかりだ。」という叫びを上げたのです。まことの礼拝は自分自身の罪を発見して悔い改めが伴わなければならないし、神様に赦しを求めて、罪の赦しの恵みを受ける礼拝でなければなりません。イザヤは神殿で神様に会い、自分の罪を悟って悔い改め人の罪までも見ることができるほど恵みを受けました。

三番目に、まことの礼拝と恵みの体験について、考えてみましょう。6、7節 「するとセラフィムの一人が私の所に飛んで来た。その手には祭壇から火ばさみで取った炭火があった。彼は私の口に火を触れさせて言った。見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ罪は赦された。』」天使の一人が祭壇から火ばさみで炭火を取って飛んできてイザヤの唇に触れさせました。これは罪の許しの恵みでした。

人間の罪が清められることは人間の力でできることではなく、神様の子羊としていけにえになったイエス様の流された血潮の力だけが可能にするという事実を示しています。その祭壇はイエス・キリストの贖いを意味し、私達はイエスを通して罪の赦しの恵みを受けるのです。イエス・キリストは十字架の上で御自身の血潮を流され、聖なる祭壇を造られました。祭壇は火が必要です。火は燃やされた聖霊の火です。主イエス様が十字架の上で死んで、復活された後、聖霊を遣わして、主が御自身の身体の血を流して立てられた祭壇の上に火のように燃やしておられました。

聖霊の働きは罪人達に罪を悟らせ、罪を告白させ、イエス様を救い主として信じる時に、罪を赦し、救いに至らせることであります。救われた人々の体を聖なる宮として使っておられます。祭壇に炭火が燃え上がるように、聖なる宮となった聖徒の心の中には、聖霊の火が燃え上がっているのです。その意味は、聖霊様が私達の心の中で、聖潔、感動、感化、内住、内在、満たし、交わりをなさるということです。

四番目に、まことの礼拝と召命について考えてみましょう。8節に「その時、私は主の御声を聞いた。誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。私は言った。『私がここにおります。私を遣わして下さい。』」神様の栄光を見る時、自分自身の罪を見て悔い改めるならば私達は神様の恵みで新生、即ち新たに生れる体験をすることができます。

人は霊的に新たに生れ、霊的な人になって、神様の霊の声を聞くことが始まりです。神様の声は神の宣教のために働き人を探す声です。イザヤは神の声を聞いて「私を遣わして下さい」 と懇願しました。

まことの礼拝は、奉仕、労苦、献身につながらなければなりません。神様の恵みを体験した人々は、イエス様の証人となって世に向かって福音を伝えて行かなければならないのです。特に旧約時代の神の民が、内側に集って礼拝のために来る運動ならば、新約時代の教会の信徒達は、集って学び、礼拝、賛美、祈り、聖書、交わり、また神を体験した後に全世界に向かって宣教を進んで行く運動と見ることができます。私達は今この運動の中で進んで行くのです。マタイ28:19の「それゆえ、あなた方は行って全ての国民を主の弟子にしなさい」というのは、まさに新約時代の教会に課せられた宣教の使命そのものです。

まことの礼拝は、まず上を仰ぎ見ることです。イザヤは神殿に入って一番先に上を仰ぎ見たのです。即ち神様の御座を仰ぎ見たのです。神様の神殿で上を仰ぎ見る人は神様の聖さと栄光とを見ることができます。その次には内側を眺めました。即ち、自分自身を眺めました。自分自身を眺める人々は自分の罪を発見して悔い改めて赦しの恵みを受けるのです。その次には外側を眺めました。即ち、時代的な使命を自覚して、次の世代に進んで行く決心をした責任を取るのです。

イザヤの体験は、今日、私達も必ず体験しなければなりません。イザヤは、まことの礼拝を通して、このような体験をしました。私達も、まことの霊と心からの礼拝を通して、毎日神様と出会って、自分自身を発見して、罪の赦しの恵みを受け、新生と聖霊を体験して、使命を実現する神の国のために、このような聖徒になることができますようにと祈りましょう。

愛する兄弟姉妹の皆さんは、まことの礼拝を捧げることを願う者の一人ではありませんか。


 

寄稿


「ウィクリフ(聖書翻訳協会)の宣教パイロットになるのが神様の御心だと思う」と主人から聞いた時は、まさかと思いましたが、話はどんどん具体化して行きました。自衛隊を辞めたら生活はどうなるの。子供の教育は。私は体が丈夫じゃないし、主人だって若いとは言えない年なのにジャングルで生活するなんて。言葉も通じなかったらノイローゼになってしまう……。どんどん不安が大きくなり、神が全能であることすら忘れていました。御心なら従いますと、口では言いながら、逃れることばかり考えていました。「口先ではあなたに近く、腹ではあなたから遠い。」(エレミヤ記12章2節)それは、まさに私でした。キリストは私達を愛して、ご自分を香りの良い供え物として神様に捧げて下さったのに、私は全てを捧げるのではなく余ったところだけを捧げようとした、地上の生活を愛する貪欲な者、つまり偶像崇拝者だったのです。偶像崇拝者はキリストと神の国を受け継ぐことはできません。神は、愛する子供である私達に、神に倣うものとなりなさいと言われました。(エペソ5章1~5節)

片山順子


(日曜学校ノートから)ノアの大洪水 2


あなたはノアの洪水が実際にあったと信じますか。この質問には、クリスチャンの多くが、「もちろん信じますよ」と答えるでしょう。でも、さらに続けて、聖書は私達にノアの洪水によって全世界が一度に水の底に沈んで、ノアの箱舟に乗ったもの達を除いて全ての地上の生き物は滅んでしまったと教えています、それでも信じますか、と尋ねたら、ほとんどの人が「いやそんなことは有り得ない。だってヒマラヤは8千m以上もあるのに、聖書には世界中で一番高い山の頂上よりも上まで水が来たと書いてある。実際は、ノアの住んでいたメソポタミア地方一帯に洪水が起きて、その地方の何もかもを流してしまったのです。それを、当時の人の知りうる範囲は狭く、知りうる全ての地方が洪水に覆われたので、それを全世界と表現しただけであって決して聖書が間違っているわけではない」と言うでしょう。あなたはどう思いますか。

もう一度、聖書が教えるノアの洪水の様子を確認してみましょう。

人間が堕落して地上に悪が満ちたので(なんと今の世界のようではありませんか)神は人間を全て滅ぼし去ろうとお決めになりました。しかしノアだけは神の目にも正しい人であったので、彼と彼の家族だけは救うことにされ、ノアに、ご自分が地上に送ろうとしている洪水から逃れるための船の建造を命じられました。それは長さ約135m、幅約22.5m、高さ約13.5mという途方もなく大きな箱型の船でした。ゴフェルの木で造るようにと命じられたこの船の建造に何十年かかったかは記録にありません。間違いなく言えることは、その間、ノアは人々に「神の裁きが近づいている。態度を改めて神に赦して頂きなさい」と勧め、それゆえにノアと彼の家族は周囲の人々のあざけりの的になり続けただろうと言うことです。ペトロの手紙第二3章3、4節に「欲望の赴くままに生活してあざける者達が現われ、あざけって、こう言います。『主が来ると言う約束は、一体どうなったのだ。父達が死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変らないではないか』」と書かれている、そのままに。まさに箱舟建造はノアにとって、神からのテストでした。

さて、ついに箱舟は完成します。神は、ノアと彼の家族、そして種を残すために神が選ばれた動物や鳥達に箱舟に入るように命じられました。そして「大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれ」「雨が四十日四十夜地上に降り続いた」のです。「水は次第に増して箱舟を押し上げ、箱舟は大地を離れて浮かんだ。」「水はますます勢いを加えて地上にみなぎり、およそ天の下にある高い山は全て覆われた。水は勢いを増して、更にその上15アンマに達し、山々を覆った。」地上の生き物は「ことごとく死んだ。」「水は150日の間地上で勢いを失わなかった。」「150日の後には水が減って」「箱舟はアララト山の上に止まった。」雨が降り始めて一年後、地上が乾き、神はノア達に箱舟を出るように言われました。

以上は、創世記6~8章の洪水に関する記述の要約です。洪水が終わった後、神はノアとその子孫である私達を祝福し、契約を立てて下さいました。9章13~15節に神の契約の言葉が書かれています。「私は雲の中に私の虹を置く。これは私と大地の間に立てた契約のしるしとなる。私が地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、私は、私とあなた達ならびに全ての生き物、全て肉なる者との間に立てた契約に心を留める。」

これがノアの洪水です。

天の下にある高い山は全て覆われ地上の生き物はことごとく死んだと書いてあります。これだけなら最初に書いた人の意見のようにメソポタミア地方一帯のことだと読めないわけではありません。しかし、水が減って箱舟はアララト山の上に止まったとも書いてあります。地図を見るとアララト山は標高5185mです。これでは、どんなに少なく見積もっても現在の海面から5200m以上までは水が来たと考えざるを得ないでしょう。だとすれば、その水は広がって世界中を覆ったでしょう。ノアの洪水は、メソポタミア地方だけでなく全世界的なものだったと考える方が自然なのではないでしょうか。

こう書くと、「この人頭がおかしいんじゃない?」と思われる方が多いことでしょう。当然だと思います。そう思われる方は、是非今後に期待して頂きたいと思います。来月以降のこの欄で、私は本気でこう申し上げていること、そして聖書の記述が完全に正しいことを証明したいと思っています。

「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面している私達に警告するためなのです。」(コリントの信徒への手紙第一10章11節)             片山進悟


 

お知らせ

9月28日(土)、29日(日)に、杉田政志先生をお迎えして、「豊かな人間関係を作るために」と題して、秋の特別伝道集会をカーメルバプテスト教会で行います。28日は午前10:30~12:00、午後2:00~3:30の2回、29日は午前11:00と、全部で3回の講演を予定しています。

毎月第3月曜日、夕方7時からカーメル教会2階215号室で、マンデー・ジャパニーズ・ナイトを行います。生活に役立つお話しを聞いたり、ゴスぺルを歌ったり、お菓子を食べながらの楽しい交わりなどを通じて、シャーロット地区の日本人の連帯を深める場になればと願っています。

ベビーシッターも可能ですので小さいお子さんがいらっしゃる方はご相談下さい。

 

9月28日(土)、29日(日)に、杉田政志先生をお迎えして、「豊かな人間関係を作るために」と題して、秋の特別伝道集会をカーメルバプテスト教会で行います。28日は午前10:30~12:00、午後2:00~3:30の2回、29日は午前11:00と、全部で3回の講演を予定しています。

土曜日の第二回目の講演の前後、アメリカでの生活や学校のこと、会社での人間関係などについての、相談をお受けします。杉田先生の他、アメリカ人婦人にも答えて頂きますので、相談したいことがある方は、どうぞご遠慮なく。

ベビーシッターも用意します。また子供さん達はリクリエションセンターでバスケットなどをすることができます。

 

この「いのちの泉」は、シャーロット在住日本人のコミュニケーションのための月刊紙を目指しています。皆さんもどうぞ、奮ってご参加下さい。ご意見・ご感想・投稿・その他、お互いの向上に役立てるための趣旨に賛同して下さる内容であれば何でも結構です。

郵便は、Carmel Baptist Church のJapanese Ministry 宛、電子メールは charlottejpm@hotmail.com にお願いします。

 

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