2002年10月号

太陽が低くなり、家の中に入る日差しが深さを増してきました。10月は来春に向けて花を植える時期ですね。私も久し振りに鍬をとり土を耕して、新しい土を入れ、小さなスミレ草を沢山植えたのはいいのですが、翌日から腰痛に悩まされ、一週間たった今もそろそろと腰をいたわりながら動いているような有様です。痛めてみて初めて腰がいかに身体の中枢をなしているか良く分かりました。皆様お変わりなくお元気にお過ごしでしょうか?

9月28、29日、Carmel Baptist教会ではオハイオ州から杉田政志牧師をお迎えし、秋の特別伝道集会を行いました。杉田先生は「豊かな人間関係」を中心にお話し下さいました。豊かな人間関係とは、神様が創造して下さったあなた自身を受け入れ、神様につながって「神様有難う」と生きて行く時、自ずと豊かさが生じ、それが回りの人々に良きものとなって伝わっていくこと。そこには健全なる責任が伴うこと。健全なる責任とは、自らがなしうることには最善の責任を持って当たらねばならないが、自分がなしえないことは主にお委ねすること。(これがとても大切なんですね)それができると「あっ、どうして分かってくれないの?」「一体何やってるの!」「もうどうしようもないんだから」などと、夫や子供達に言っていた言葉が何時の間にか消えて行くんです。本当に不思議です。あなたの心の中心に何を置くか。

「あなたはぶどうの木、私はその枝」主につながって豊かな実を結びたいものです。

 

 

 

 



ヨハネ1:14~16、コリント15:8~10

キリスト教会は本当に恵まれた教会です。私達は、ただ神の恵みに預かるだけでなく、たえず「恵みの上に更に恵みを」ということで、神の恵みと祝福に与らせて頂きたいと思います。

今日はヨハネとパウロの証しから、また神の御言葉を通して、主の恵みの素晴らしさを皆さんと味わいたいと思います。しかも、味わうだけではなく、満喫したいと思うのです。そうすれば、神とはどんなに素晴らしいお方か、そして神に頼る者がどんなに幸いであるかが分かります。

 

ヨハネの証し

ヨハネがここで言っている「恵みの上に更に恵みを受ける」とは、どういう意味でしょう。明らかに「恵みの上にまた恵みを加える」ということです。すなわちどの必要にも応じられる恵みのことです。ちょうど主イエスが言われたように「私の恵みはあなたに十分である」と同じです。(コリント12:9)

ヨハネの福音書のテーマは、私達がイエスを信じて、命を得ることにあります。(ヨハネ20:31)命を得た人にはどんな恵みが与えられるでしょうか。イエス・キリストが「言葉が肉となって、人となった」ことによって、人類の救い主となられたのです。私達は主イエスを通して、霊的な命、限りのない愛、完全な贖い、かん難の時の助け、満ちに満ちた喜び、心にある安らぎなどが与えられます。主は十分な恵みと真理に満ちておられるお方です。私達も信仰経験の中でその恵みが取るに尽きず、用いるに尽きないものであることが分かります。一つの恵みが与えられたと思えばもう一つの恵みがまた加えられて来ます。

「恵みの上に更に恵み」のギリシア語原文は、「恵みにまた恵みが続く」の意味があります。ここには二つの意味があります。

1、キリストの内にあって私達は一つの奇蹟を通してもう一つの奇蹟に気づくことができます。一人のお年を召した宣教師が、ある古い国の国王に福音を伝えに行きました。王は聞きました。「もし私がクリスチャンになったら、一体何が得られるだろうか。」宣教師は答えて言いました。「クリスチャンになれば、あなたは奇蹟にまた奇蹟を得ることができます。しかも、どの奇蹟も真実なものです。

私達は時々、感動するほどの素晴らしい景色に出会えます。どの景色も現れた時には、それを一番きれいだと思うでしょう。しかし、角を曲がった途端に思いも寄らないもっと素晴らしい景色が目の前に現れてきます。山登りも同じでしょう。山頂に着いて、一番高い所に来たと思っていたら、他にも自分が登った山よりも高い山がある事が分かるのです。物事に対する観点も同様に更に高く遠くを見ることができるようになります。音楽や美術を習ったりすることも同じです。永遠に止まることがないのです。新しく、しかも美しい経験が延々と求める人を待っているのです。キリストに対する認識も同じです。イエスを知れば知るほどますます主イエスの大きさを感じることができます。イエスと長く生活をすればするほど、沢山の、愛すべきことに気づくのです。主イエスを考え思えば思うほど与る恵みも更に多くなります。ヨハネは先ほどの御言葉でキリストの限りの無さを表し、人々がもしキリストの恵みの中にいるのなら、たえず神の新しい御業に気づくことができると説明しています。毎日、彼の生活(命)の中に現れます。ただ命を得るだけでなく、しかも豊かに持つことができます。(ヨハネ10:10)

2、 恵みにまた恵みが

文字で解釈するとキリストにあって恵みに続いてまた恵みに与るという意味です。人生の中で、違う時代や違う環境にそれぞれ違う恵みが必要です。豊かな時にはその時の恵みが必要で、貧しい時にまたその時に必要な恵みがあります。若い時に必要な恵み、年老いた時に必要な恵みがまた違います。教会が迫害された時に必要な恵み、歓迎されている時の恵みがあります。人生の良い時での恵み、意気消沈し挫折している時、失望に満ち、気落ちした時に必要な恵みがそれぞれあります。私達の肩にある重荷は主の恵みによって担って頂く必要があります。同時に他人の重荷を共に担おうとする時に必要な恵みもあります。物事に対して全て知っている時には、その時の恵みがあります。また何事も知らない時には、その時の恵みがあります。神の恵みはいつも同じパターンではありません。活発なもので、環境のいかなる変化にも適応するものです。必要な時にその必要に応じた恵みが与えられます。新しい必要には新しい恵みがあります。私達の一生は恵みにまた恵みが与えられます。主の恵みはどのような環境変化にも応じられるものであることを神に感謝します。


 

 

寄稿


皆さんは良い人間関係と言うと、どういうふうに考えますか。今回オハイオ州から杉田牧師をお招きして人間関係ということで話して頂きました。

さて私達キリスト者がお互いに良い人間関係を持つことができたら素晴らしいと思いませんか。私達は一人の主、主からの啓示の言葉、皆が属している一つの身体である教会、イエス・キリストに栄光を帰したいという願い、主を分かち合いたいという思いなど多くの共通点を持っているのですから、是非そうすべきであると思います。にもかかわらず、誤解や不一致や分裂分派等があります。何かおかしいと思いませんか。私達は神が望んでいることと、そのために教会があることも知っています。それなのに一致を実行しようとして多くの困難を覚えています。一致の代りに意見の食い違いや悪感情を見ます。どうしたらそんな状態を好転することができるのでしょうか。どうしたらお互いの調和が保てるのでしょうか。エペソ人への手紙の4章には、この質問についての助けになる答えがあります。まず第一に、私達が互いに仕え、助け合うことができるようにと、神は御霊の賜物を与えて下さいました。(11、12節)それは一致を与え、キリストに似る者として(13節)愛のうちに建て上げることを可能にする(16節)。しかし、調和を保つためには生活に変革が起きる必要性があります。未信者の生き方、つまりキリストと出会う以前の過去の生き方とは違う生活が必要なのです。(17節)キリストが十字架上で死に、罪と自己とに支配されていた古い性質を処理し、主は罪の権威を取り去られ(22節)神にかたどられた新しい性質を与えて下さったのです(24節)。

杉田先生が話されたように、私達はセルフイメージング、つまり自分を評価する周りの言葉によって作られた自己像の中に生きていることに気づく必要があるのではないでしょうか。良いセルフイメージは神によって造られ、神様はどのような私達でも、「私の目にはあなたは高価で尊い、私はあなたを愛している」(イザヤ43の4)と言って下さいます。

私達の罪の深さと、主の赦しの恵みの広さを理解する時、より良い人間関係へとなって行くのではないでしょうか。今回の伝道集会では、杉田牧師と個人的にも話し合う機会が沢山与えられ、楽しい人間関係を築かせて頂きました。

            成子 Thompson


 

 

ノアの大洪水 3(日曜学校ノートから)


ノアの洪水が実際にあったかどうか調べているジョンモリス博士は、宣教師、人類学者、民俗学者などを通じて世界中から200以上の洪水物語を集めて分析しました。その結果、それらの物語には次のような共通点があることが分かりました。

       選ばれた家族が有ったか。          88%

       事前に神の警告が有ったか。        66%

       洪水は人類の邪悪さのゆえか。             66%

       惨事は洪水だけか。                95%

       洪水は世界的な規模か。            95%

       船によって生き残ったのか。        70%

       動物も一緒に救われたか。          67%

       生存者達は山に着いたか。          57%

       虹に言及しているか。              75%

       8人だけが生き残ったと言っているか。 9%

民俗学者の研究によると、幾つかのグループに似通った伝承がある場合、世代を経ることによって部分部分がぼやけたり、別の話と置き換わったりするが、それらは祖先が実際に経験した事実に基づいていることが多いと言います。それを考慮に入れて、この調査結果を見ると、その共通点の多さと、その比率から、これらの人々の先祖は同じ洪水を経験したと言えるのではないでしょうか。そして、世界中に分布している人々が似通った洪水伝承を持ち、その伝承が、洪水が世界的な規模であったと口を揃えていることは、ノアの洪水が全世界を覆ったという事実の、人類学的な面からの確認です。

 

メソポタミア地方に洪水伝説があるのは、そこが聖書の舞台であるから当然として、聖書の世界とは無関係の、つまり聖書の物語の伝わりようのない、しかも洪水など起こりえない南米の山中に住む人々にさえ、遠い昔の大洪水の話が伝わっている事実は何を意味しているのでしょうか。それは本当に大洪水が世界的規模で起こり、その人達の先祖はその洪水で生き残ったということです。

さてそこで、この洪水の記録・記憶について二つの可能性が考えられます。一つは、大洪水に際して世界各地に生存者があったために各地に洪水の記憶が伝えられている可能性。もう一つは洪水に際して少数の生存者があり、その子孫が世界中に散らばったという可能性です。そのどちらが真実であるかを証明する方法はないかも知れません。ただ伝承の中に「選ばれた家族があった」と伝えているものの率が非常に高いこと。また、古くから南米に住んでいた人々の祖先はベーリング海峡を渡り、アラスカ、北米を経て南米に至ったモンゴル人種であり、中国、タイに住む洪水伝承を持つ人々と共通の祖先を持っていると言えるので二つの可能性の内、後者の確率が高くなります。それは洪水の時8人の生存者があり全人類はその子孫達であると述べている聖書の記述と一致します。つまり創世記の記述が正しく、創世記に、人類の歴史上最古の記録としての価値があることが分かります。

 

クリスチャンにとって、創世記の記述が事実の記録であると信じるに足るもう一つの理由があります。旧約聖書の最初の物語、創世記は、神が私達に知りえない昔について教えるために与えられたものです。そして新約聖書の最後の部分、黙示録は、私達に未来の出来事を示すために与えられました。この二つの本に書かれている世界を対比してみましょう。人が罪を犯す前のエデンの園は、やがて来るべき永遠の楽園の雛形でした。そして、人類の罪からのイエス・キリストによる救済という神の御計画が完了した後、ある時間を経て、本当の楽園が実現します。

創世記の予表的な世

黙示録の永遠の世

光と闇の分離(1:4)

夜がない(21:25)

陸と海の分離(1:10)

海がない(21:1)

太陽と月(1:16)      

太陽も月も必要ない(21:23)

人は園に(2:8)

人は都に(21:2)

川がエデンから(2:10)

川は神の玉座から(22:1)

金を産する(2:12)

都には金が豊富(21:21)

園の中央に命の木(2:9)

都に多くの命の木(22:2)

琥珀や大理石(2:12)

あらゆる宝石(21:19)

神は園を歩かれる(3:8)

神は民と共に住まれる(21:3)

()内は創世記、黙示録の章と節

なお、創世記の最初の2章には罪がなく、サタンもいません。黙示録の最後の2章にも罪がなく、サタンもいません。このように、この二つの本の記述は対比になっています。私はここに、聖書は神が私達のために私達が理解できるように与えて下さった本だという印を見ます。

神は創造の週に全てを創造され、それらを良しと言われました。しかし人が罪を犯す可能性を予見しておられたので、地上には「エデンの東」始め、楽園以外の部分もありました。一方、キリストのあがないが完成された後の御国は、神の御業が完了した完全なものです。それがこの対比に見られます。

 

神は、人の世が罪に覆われたのを見て、それを大洪水によって地上から拭い去られました。そして新たに造られた世は、ノアと彼の子孫とに与えられましたが、その者達の中からも堕落する者が出ることを神は知っておられました。(創8:21)しかし神は、神を信じる者達に希望を与えるために、ご自身が計画しておられるイエス・キリストによる人類の救いと、救われた者達に約束されている永遠の世、すなわち神が本来造ろうとしておられた世がどのようなものであるかを聖書を通して示されたのです。

 

私は、ノアの洪水を疑うことは、かえって科学的でないと考えています。なぜなら、このように文書や伝説の形で世界中に洪水が有ったことが伝えられていること、各地におびただしい数の化石が残っていることなどから洪水は客観的事実と言えるのですから。

しかし、創世記に書かれているような、世界中を覆うような洪水は起こりえないと考える人のために、創世記に従って洪水に関する記述と現実の世界を対比しながら、世界規模の大洪水が実際に起こったのだということをご説明していきましょう。

                           片山進悟


 

お知らせ

ラッセル牧師は10月13日をもってカーメル・バプテスト教会から、アシュビル(NC)の教会に移られました。先生のこれまでのお働きに感謝すると共に、新しい教会でのお働きとご家族のためにお祈りしたいと思います。

 

毎月第3月曜日、夕方7時からカーメル教会2階215号室で、マンデー・ジャパニーズナイトを行っています。生活に役立つお話しを聞いたり、ゴスぺルを歌ったり、お菓子を食べながらの楽しい交わりなどを通じて、シャーロット地区の日本人の連帯を深める場になればと願っています。

家族の時となることを願っていますので、小さいお子さんがいらっしゃる方もご遠慮なくおこし下さい。

 

9月28日と29日、杉田政志先生をお迎えして「良い人間関係を築くために」と題して特別講演会が行われました。4回の講演を通して、「あの人がこうだったら」とか「あの人がこうしてくれさえすれば」と、人に求める姿勢ではなく、自分がどうすべきかを考え、実行することが良い人間関係を築く鍵であると教えられました。

12月21日には家族で楽しめるクリスマス集会を計画していますので、どうぞ今から予定に入れて置いて下さい。

 

この「いのちの泉」は、シャーロット在住日本人のコミュニケーションのための月刊紙を目指しています。皆さんもどうぞ、奮ってご参加下さい。ご意見・ご感想・投稿・その他、お互いの向上に役立てるための趣旨に賛同して下さる内容であれば何でも結構です。

郵便の場合は、Carmel Baptist Church のJapanese Ministry 宛、電子メールは charlottejpm@hotmail.com にお願いします。

 

先月号の片山順子姉の証しは、10年前片山兄が海上自衛隊のパイロットを辞めてウイクリフの技術宣教師になると言った時の、順子姉の心境を書いたもので、現在のことではないことを明らかにして欲しいと希望がありましたのでここにお断りいたします。

 

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