2002年11月号

今年は久し振りに素晴らしい紅葉を見せて頂きました。神様が与えて下さった美しい自然を皆様存分に味わわれましたでしょうか?つい先日Knoxvilletoからシャーロットまでアパラチア山脈の間をドライブする機会がありました。 前日が雨で冷え込んだからでしょうか、錦秋の山脈の上の方に樹氷が帯状になっているという珍しい風景に出会い、予期しない自然の成せる業に感動致しました。

皆様には、お変りなくお過ごしでいらっしゃいますか。この度、シャーロットに15年間住まわれ、12年もの長きに渡ってホスピスでマッサージのボランティアをされていた橋本冨美子さんが、御主人のお仕事の都合で日本へお帰りになりました。橋本さんはクリスチャンではありませんでしたが、友納牧師の頃には熱心に日本語集会に参加されガレージセールなどでも大きな働きをして下さった方でした。今度は日本でどんな働きをなさるか楽しみです。

また7月にストロークで倒れられた淑子サイプ姉は、週2回お仕事を再開されるほどに回復されました。運転もご自分でしているそうです。感謝です。お祈り有り難うございました。

先日私は4才の孫と共に落葉降る中を散歩しました。美しく輝く紅や黄色の木に出会うと喜びの声で彼に語り掛けておりました。ところが彼が「Grandma, that is a beautiful tree」と言うのを見ますと、それは一面枯葉に覆われた大木でした。それまでの私は紅や黄に染まったものを美しいと思っており、茶色の枯葉に美しさを見たことはなかったのです。私は彼の言葉に枯葉の大木を眺めてみました。そして枯葉の木には枯葉の木の美しさがあることを教えられました。聖書の中にある「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできません。」(ルカ18:17)という御言葉を改めて思い起こさせられた次第です。

 

 

 

 



二、パウロの証し           Ⅰコリント15:8~10

パウロの恵みに対する感じ方を見てみましょう。コリント人への第一の手紙の15章は、主にイエス・キリストのよみがえりについて書いています。今日の聖書個所にはパウロの証しが入っています。恵みの賛歌と言っても良いでしょう。パウロは「神の恵みによって私は今の私になりました」と言っています。これは彼が、その時の自分の身分と地位は、神の救いの恵みによって与えられたものであることを指して言っています。彼はかつてダマスコへの路で主が彼に現れたのを思い返して語っています。(使徒9:1~9)イエスがよみがえり、人々にご自分の姿を現わされましたが、パウロはそれを見た最後の人でした。なぜかと言うと彼はキリストが昇天された後に主に出会ったからです。

パウロは「月足らずで生れた者と同様な私にも、現れて下さいました」と語っています。これは彼が謙って言っているのです。彼が自分を未熟児に例えて言ったのは、イエスの福音を聞いてすぐに従ったのではなくイエスが復活された後に救いの恵みに与ったからです。彼は熱心なユダヤ教徒でした。しかも強力に神の教会を迫害していた人でした。彼は自分が「使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です」と言いました。そして、過去の自分の愚かさと今日に与えられた身分と地位を思って主の恵みに感謝していました。彼の恵みに対する感謝というのは、自分の伝道が成功したから、多くの教会を建てたから偉くなったからを指して言っているのではありません。過去に教会を迫害していた時の無知な自分と、今の状況にある自分とを比べて言っています。主が今、どれだけ彼を用いているか、そして彼がどんな人に変えられたかを考えて、全て神の恵みによるものであると彼は言っているのです。彼は神の恵みを裏切りたくなかったのです。ですから、彼はどの使徒(弟子)よりも働きに励んでいました。これは彼の奉仕を指して言っています。彼は主のために働き、力の限りを尽くして過去に失った時間を取り戻したかったのです。

ですから、ここでの「恵みの上にさらに恵みを加える」と言う言葉には二つの意味があります。

Ⅰ 身分・地位の恵み

一つ目の恵みは身分と地位の恵みです。昔の自分を今の自分と比べて、神の恵みを見出すのです。過去を振り返って今の自分と比べてみると、今の方が更に進歩し、霊的に置いても成長したことが分かると、私は嬉しくなります。そして神の恵みに感謝します。感謝すればするほど、神の恵みが更に多くあることが分かるのです。ちょうど詩編の中にもあるように「あなたはその年に、御恵みの冠をかぶらせる。」詩編65:11これはどういう意味でしょうか。神の御恵みの大きさをパウロは知っていました。クリスチャンが信仰の道を歩み、日々神の恵みに与り、神の御手によって冠が作られ、一人一人の頭にその冠がかぶせられます。そして主の御前に立った時に、それがもっとも栄誉のあるものとなります。

Ⅱ 奉仕の恵み

これは自分を他人と比べることになります。私達は他人と比べてはならない、ただ主イエス・キリストだけを見上げるように教えられてきました。しかし、パウロは「人を自分よりも優れたものと思いなさい。」(ピリピ2の3)と教えています。これは私達に謙遜を学ばせる課題です。普通の人がもし他人と比べようとすると、段々いらいらしてきます。例えば、他人の家の方が大きいとか、よそ様の娘さんの方が可愛いとか、隣りの奥さんの方がきれいだとか、友達の旦那さんの方が沢山のお金を稼いでくるとか。北米にある教会の話ですが、礼拝が終わった後に姉妹達はダイヤモンドの大きさを競っていました。比べてみた結果、他人の方が自分よりも優れているのが分かると、コンプレックスを感じたり、他人よりも自分の方が優れていると思うと、傲慢になります。どちらも良いことではありません。しかし、あえてパウロがここで他人と比べなさいと言っていますが、一体何を比べるのでしょうか。主のための苦しみを受けることや、主のために払った代価を比べるのです。パウロが「私は他の全ての使徒達よりも多く働きました。」と言ったのは、自分の何かを誇っているのではありません。人の話で気になるのは言葉づかいではなく、その心の内にあることや、その人生の中での態度、生き方の方です。

今日、私達も神の御前で覚えなければならないことは救われたのは神の恵みによるものであり、今の身分や地位になって神に奉仕できるのも神の恵みによるもので、奉仕もまた神の恵みに頼らなければならないということです。

神の恵みは只で私達に与えられているものであると言う人がいます。安値の恵みだと言うのです。ですからそれによって私達が神に仕える時も、安物で、適当な奉仕にさえなってしまいます。ドイツの若い神学家ボンへッファーという人がいました。彼は、「キリストに従いて」という著作の中にこのように書いています。「キリストの人に対する呼び掛けと言うのは、その呼びかけられた人が命懸けでキリストに従って行くことを望んで呼びかけている」のだと。彼自身は1943年、ナチス政権に反対していたため逮捕されました。そして1945年に39才の若さで主のために殉教しました。これは高価な恵みであると彼は主張しています。この恵みこそ、神の御子イエス・キリストが私達のために命を懸けて下さった代価です。私達はこの高い代価によって買い取られたものです。すなわち、神がこのような重大な代価を払われたのですから、私達はそれを安いものだと考えてはいけないのです。安物の恵みとは何でしょうか。それは、弟子になる代価を支払わないことであり、十字架の恵みのないものです。なぜ恵みがそのような価値しかなくなるのでしょうか。それは、一人一人の価値観が違うからです。ずれさえあります。金やダイヤモンドは価値のあるものだと思う人がいます。確かにそうです。それらの物にはある程度の価値があります。しかし、万物を創られた主は、人間にとって最も必要とされる空気と水をただで与えて下さっています。皆さんはどちらの方に価値があるとおもいますか。パウロは続けて証ししています。「しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」中国語の聖書では、「神の恵みが私と共にある」という言葉で書いてあります。共にあるというのは、神の恵みが私の上では持続性を持つものであり、過去からずっと続いてあるもので、しかも未来に至るものです。これが神の恵みの最も尊いところで、過去に頂いた恵みだけではなく、神の恵みの素晴らしさを経験しただけではなく、今もなお神の恵みの中に与らせて頂いていることを神に感謝します。クリスチャンはいつまでも過去の思い出の中に生きていてはいけないのです。80才や90才でなければなお更です。俗に言う「好漢不提当年勇」(偉い人ほど昔の成功をむやみに語らない)クリスチャンにとっては今現在を大事にするべきです。今こそ主に仕える機会であるから、今神から与えられた恵みで神に仕えるのです。現在進行形のクリスチャンになるのです。神様に休暇届を出すように、「神様今日はクリスチャンになるのを休ませて下さい。」というようなものであってはいけません。ある姉妹の証しの中でこのような話があります。神様に半年間クリスチャンを辞めたいと言う休暇届を出したということです。そして、ちょうど半年後に休暇期間が終わり、また神様の導きによって教会に戻ったそうです。

神様に「一週間休ませて下さい。その間はあなたの恵みも要りませんから」と言ってはなりません。もしかして、今あなたの状況は非常に弱い所に立たされているかもしれません。しかし、神様はあなたに「私の恵みはあなたに十分である。」と語られているのです。

兄弟姉妹の皆さん、今日、私達は既に神の恵みに与ったでしょうか。「恵みの上に更に恵みを受ける」ことはあなたにとってどんな意義がありますか。どうか、今日のメッセージを通して、私達が神の恵みの中に生きられますように。そして、一番目の恵みの中に生きるだけでなく、二番目の恵みの中にも生きることができますように。今後の祈りの中でも、ただ「今の私になれたのは、主よ、あなたの恵みによるものです。」と祈るだけではなく、「主よ、今あなたに御心を示され、奉仕させて頂けることも全てあなたの恵みです。」と祈ることができますように。

今、私が牧師として日本人ミニストリーに奉仕できるのも本当に神様の恵みです。日本人に伝道することは倍以上の霊的な力と、倍以上の神の恵みが必要です。

ヨハネの証しと同じように、「私達は皆、主の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上に更に恵みを受けたのである。」と言えますように。

どうか、主の恵みがいつも私達と共にありますように。

 


 

 

寄稿


この世に命を授かって生まれて来た以上、誰もが愛する人との分かれ、すなわち死というものに直面することになります。その時が来ることは分かっていても、それを待ち受けることはできません。外国に嫁いで来た時から漠然と両親との、この世での別れのことは思いの中にありましたが、父が胃ガンの手術をした時も肝臓ガンの手術をした時も、経過の余りに良い父の様子に、多分直面することを自分で避けていたのかもしれません。男らしい、強い、誇りにできる父でした。結局倒れて危篤状態になる前日まで仕事をしていた父でした。

2000年の1月に夫と一緒に洗礼を受けた後も、あえて福音を家族に熱心にすることは避けました。ありのままの主人と私を見てもらえればと思いました。でも、2000年の6月の修養会参加を機に、使徒行伝16章31節「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」という御言葉に触れ、祈り始めました。

神様は姉を救いに導き、その上生涯の伴侶までも授けて下さいました。マルコ11章24節に「祈って求める物は何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすればそのとおりになります。」2001年10月、肝臓ガンが分かった時、父は遠い日本にいながらも、ここカーメル教会で本当に沢山の教会員の祈りに支えられ順調に乗り越え、笑顔の中で姉の結婚式を終え、姉をアメリカへと送り出しました。でもやはりガンは戻ってきました。2002年2月、その日の朝突然倒れた父はそのまま危篤状態になりました。5日後駆けつけた姉と私は思ったより様子が回復している父に驚き、またラッセル先生の私から父へ福音を伝えるようにとの励ましもあり、その時から短期間の間に父への福音を心にかけました。

神様はそのことを直ぐに整えて下さいました。日本に着き、病院に通い始めた3日目の朝、突然スウェーデン人で日本に25年も宣教して来たケント牧師の訪問を受けました。主人がウエブサイトで和歌山に一番近い牧師を探し、連絡を受けたケント牧師はその日のうちに来て下さいました。彼は定期的に訪れ父と母、姉と私を祈りと御言葉で支えて下さいました。私の滞在には限りがあり2週間でとんぼ返りしました。でも神様は2週間後、子供2人を父に会わせて下さる機会を用意して下さいました。父は誕生日に退院を許され、私達3人を嬉しそうに出迎え、その後数日は本当に楽しい時間を過ごしました。9日間の短い日々、それが父と私と子供達の最期のひとときでした。4月6日私達が帰途につくとすぐ父は急変し病院に戻りました。

4月15日ケント牧師が訪ねて下さり、救いへの導きが病院でなされました。父ははっきり彼の応答に「はい」と答えたと母と姉から報せが入りました。神様は素晴らしいご用意をもって、私と主人の福音の願いをこんな短期間に実現させて下さいました。

血を吐いてもう24時間くらいと言われた時から1時間おきに病室に電話して呼びかける私は、もう神様が呼んで下さっているから行っていいんだよと父に話しかけてあげました。そして天国でマークと私と子供達と再会しようねと話しかけました。神様は聖日である日曜日に父を召して下さいました。アメリカ時間の日曜の朝9時23分私の電話を母が置いた時息切れたそうです。私達は家族で11時からの教会に参加し、父の昇天をラッセル先生の導きでお祈り頂きました。

父のお葬式の翌日ラッセル先生から頂いた御言葉はしばらくはどう受け止めて良いか分かりませんでした。「神を愛する人々すなわち神のご計画に従って召された人々には、神は全てのことを働かせて益として下さることを私達は知っています。」(ローマ8章28節)今はこの御言葉をしっかりと受け止めています。

父の救いはカーメル教会の教会員にとっても本当に「Praise the Lord」だと名前も顔も知らない多くの方々からハグや言葉を頂きました。3ヶ月、6ヶ月と欠かさず送られてくる励ましのカードは私達にとってこの上もない励ましです。最高のギフトを私と私の家族に授けて下さった神様は何もかも益として下さることを証明して下さいました。別れは悲しく辛いけれども、後から来る約束は全て打ち消してくれます。神様の祝福にただただ感謝です。この度、陰ながらお祈り頂き多大な励ましとサポートをして下さった全ての兄弟姉妹の方々に心からお礼申し上げます。また、このことを分かち合える機会が与えられたことを心から感謝します。

                 美登里Johnson


ノアの大洪水 3(日曜学校ノートから)


皆さんは、世界に海が幾つ有ると思われますか。俗に七つの海と言いますが、太平洋、大西洋、インド洋、北極海、地中海の五つを一応独立した海と見て良いのではないかと思います。では聖書は何と言っているでしょうか。

そんな事は聖書には書いてない、と思われますか? 創世記1:9を読んでみましょう。「天の下の水は一つ所に集れ、乾いた所が現れよ。」と神が言われると、そのようになったと書いてあります。神の言葉によって海と陸がそれぞれ一つできたと書いてあります。最初は海も一つ、陸も一つだったと言っています。

これを読んで皆さんの反応はどうでしょう。やぱり聖書は、そのまま信じるものではなく、理性的に考えて正しいと思われる部分から学ぶものだ。あるいは、やはり創世記の最初の部分は神話であり、私達がそれ以降の聖書を学ぶ上で参考になるお話を提供するものだというものでしょうか。それとも、いや現在の地球とは違うけど、聖書に書いてあるのだから神が初めに地球を創られた時は、このような状態だったのだ、そう信じようと言われるでしょうか。

私達の知識では海は実質的に幾つかに別れているのですが、創世記は一つだと言っています。この違いは何でしょうか。ペトロの第二の手紙3:3~7を読んでみましょう。「世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変らない」のではなく「当時の世界は、…滅んで」しまったとペトロは言っています。神が初めに創られた世界と今のものは別だと言っているのです。

私はペトロが現代の私達ほどの地理の知識、あるいは世界観を持っていたとは思いません。恐らく彼は地中海以外の大きな海を見たことはなく、海は一つ、陸も一つの世界に生きていたでしょう。つまり彼の世界観は恐らく創世記に記されている世界と一致したはずです。それでいて、なお彼は、今ある世界は創世記の世界とは違うと言い切っています。なぜでしょうか。

一方、創世記を書いたと信じられているモーセはエジプトで高等教育を受け、またシナイ半島での前後80年にわたる生活の中で、行き会った隊商などから、南にも大きな海が有ることを聞き、海は一つだけではないことを知っていたはずです。それなのに彼は、海は一つ、陸は一つと創世記に書きました。モーセもペトロも、どうして自分の学んだ知識と反することを書いたのでしょうか。なぜ今の天と地は初めのものとは違うと言うことを知っていたのでしょうか。これこそ第二テモテ3の16で言われている「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」ている証拠です。彼らが直接見聞きしたことに関係なく、神の霊に導かれて知りようのなかった事実を聖書に書き記したのです。

近代文明人にとっての地球は、南極を除けば五つの大陸と五つの海です。ところが創世記では、神が地球を創造された時、海は一つ、陸も一つであったと言っています。これが多くの人達に創世記の最初の部分は神話である、あるいは寓話であると信じさせた一つの原因です。ところが、ご存知のように地質学者の間では最近、昔は大陸は一つだったと言う説が有力になってきています。その大陸はPangaea、海はPanthalassa と言います。それが地殻変動によって現在のような地球になったのです。なるほど大陸の形を繋ぎ合わせてみるとぴったり一致するし、地殻は今も動き続けています。長い間文明人達は、陸は一つだったと創世記に書いてあるのを信じず、現実に見る世界が最初から存在した、地球は(進化説によると46億年前の)はるか昔からこの形だったと信じて来たのです。ペトロに向かって「天地創造の初めから何一つ変らないではないか」と言った人達は、多くの人の考えを代弁していました。これは「過去の地質現象は、現在の地質現象と同じ作用で行われた」という進化説の二大前提の一つです。進化説が、このような仮定を前提として成り立っていることを知ることは大切なことです。それに対して今、多くの地質学者達が、そうではないと言い出したのです。創世記の記述が正しかったということが分かり始めたのです。つまり進化説は成り立たないことが分るのです。

ただ、地球ができた時一つだった大陸が、その後現在のように別れたのだという、最近ポピュラーになって来たこの学説の弱点は、なぜ、その地殻変動が起きたのかという理由が説明できないことです。今唱えられている大陸移動説は、神の御意志を認めない、あくまでも進化説の発想なので、マントルの対流などともっともらしい理由を挙げていますが、はっきり言えば原因は良く分からないのです。でも、それは逆に、進化説を信じる人達でさえ、科学的に考察すれば、地球の原始の姿は聖書の記述の通りだと追認せざるを得ないほど、聖書は真実を語っているということなのです。そして学者達が説明のできない、いつ、なぜ、陸と海が現在のように別れたのか、その理由を聖書は明らかに教えています。それがノアの洪水の持つ地質学上の意味です。

もう一度五月号でご紹介したニネベの例を思い起こして下さい。聖書だけでなく多くの文書に記録されていたにも関わらず、多くの学者達、従って一般の人達がニネベどころかアッシリア帝国の存在自体を信じず、それらの記録を神話だと思っていたという事実は、私達が自分の態度を反省するための良い例であす。証明されて初めて信じるのではなく、神が、そしてイエスが言っておられるから信じるという態度を持ちたいものです。(ヨハネ20:27)

「信仰とは、望んでいる事柄を確認し、見えない事実を確認することです。」ヘブル人への手紙11:1

                           片山進悟


お知らせ

毎月第3月曜日、夕方7時からカーメル教会で、マンデー・ジャパニーズナイトを行っていますが、12月は21日にクリスマス集会があることから、マンデー・ジャパニーズナイトはお休みさせて頂き、通常の聖書の学びをA238号室で行います。こちらもどうぞご遠慮なくご参加下さい。

 

12月21日には家族で楽しめるクリスマス集会を計画していますので、どうぞ予定に入れて置いて下さい。

3時から第1部として、厳かにキャンドルサービスで、良くご存知のクリスマスの歌を歌い、聖書を通してキリストがこの世に来てくださった意味を味わい、その後家族で楽しむ第2部を計画しています。第2部の内容は現在検討中です。ご期待下さい。

 

 

この「いのちの泉」は、シャーロット在住日本人のコミュニケーションのための月刊紙を目指しています。皆さんもどうぞ、奮ってご参加下さい。ご意見・ご感想・投稿・その他、お互いの向上に役立てるための趣旨に賛同して下さる内容であれば何でも結構です。

郵便の場合は、Carmel Baptist Church のJapanese Ministry 宛、電子メールは charlottejpm@hotmail.com にお願いします。タイプしなおさなくてすみますので、電子メールで送って下されば感謝です。

 

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