町中が花で溢れ、新緑が若々しい活力を与えてくれる季節になりましたね。皆様にはお変りなくお過ごしでしょうか。今年の長く厳しい寒さの中にあって体調を崩された方もいらっしゃるかもしれませんが、主が与えて下さったこの浮き立つ季節の中で、力を得て、体力を回復させて下さると嬉しいのですが。

先月私は友人と共に、ローマと、シシリー島の北西部にあって、昔栄えたパレルモというシシリーで一番大きな町に行って一泊、そこから長距離バスに乗って東海岸にあるタオルミーナという町に行きました。(途中一回乗り換え、5時間位かかりました。)島を囲む海は一面ブルーで、その美しさはとても印象的でしたが、バスで走った山間部の美しさも、それ以上に心に残りました。みかん畑(まさに日本のみかんと同じでした)やレモン畑には実がたわわに実り、山を覆う若草は水々しく、羊が群がって草をはんでいました。一人の羊飼いが羊の群れを連れている姿を目にした時には、ダビデもその昔こんな風に羊を追っていたのだろうかと、ふと心に思ったり致しました。所々に100年、200年は経っているのではないかと思うような古い家があって、山間部とは言っても人間の生活の臭いが感じられる所でした。

Text Box:  まだ十分に使えるものを容赦なく壊して、新しい建物に変えて行く姿を日常見慣れている私には、古い物を大切にしているヨーロッパの姿は返って新鮮で堅実な生き方に映るのでした。ローマの町で何度も目にした、先生に引率された中・高校生の旅行の姿は何十年も前の私達の姿を思い起こさせてくれましたし、良くあんなに歩いたと思うほど歩きまわったローマの街でセルフォーンを使いながら歩いている人を見なかったのも私にとっては嬉しいことでした。

新しい物を追いかけ、古い良き物をないがしろにしがちな今の生活を改めて振り返ることの多いこの頃です。

イザヤ書30章「穏やかにして信頼しているなら力を得る」という御言葉に心引かれ、しっかり自分自身に根づかせたいと心の中で反すうしているこの頃です。

 

 

 


 


 パウロはエペソ1章の中で、キリストと教会を高く挙げています。これは、理想的な教会であり、教会にあるべき基準でもあるのです。しかし、パウロは現実を忘れていません。現実の教会はどれだけ主の理想に沿わないでいることか。ですから、2章の頭からパウロは異邦人の信者達に、まだ主を信じる前の生活はどのようなものであるかを気づかせようとしています。それは過ちや罪の中で生活していることです。霊的にも死んでいる状態なのです。そのような時は、時代の風潮を追いかけ、悪魔・サタンに支配されて、神に従わない人になっています。異邦人がそうであると同じように、ユダヤ人も神に従わず、神の怒りの対象になっています。

 私達は神に従わない者であり、神の処罰を受けるべき者ですから、永遠に神と隔離されるべき者です。しかし神の本質は、慈愛(慈しみ)です。神は哀れみと愛によって、私達を救って下さいました。それは、私達に何か優れているものがあるからではありません。罪の中に死んでいた私達ですらも、神は私達をキリストと共によみがえらせて下さいました。人はただ神の恵みによって救われます。また、私達も信じることによって、新しい人に作りかえられ、キリストにおいて新しい命を得て、神と仲直りし、人々とも平和を持つことになります。それ以来、ユダヤ人と異邦人も分けることなく、キリストの中で一つになるのです。もともとユダヤ人と異邦人との間には距離がありました。異邦人は宮に入って礼拝を守ることは出来ず、彼らの間には隔たりがありました。今はイエスが十字架で死なれたゆえに、その壁は取り壊されました。すなわち彼らの間にある敵意を取り除いたのです。イエスの犠牲によって、彼らは平和につき合うことができ、今では同じ教会の中で神を礼拝することができるようになりました。

 ですから、私達は誰でも人々に平和をもたらすこの良い知らせ(Good News)を述べ伝えるべきです。遠く離れている人にも、近くにいる人にも伝え全世界の人々がこの平和をもたらす福音が聞けるようにするのです。その福音によって人々が心に平和を持ち、人と人とが平和に付き合えるようになるためです。(原文の平安と平和は同じ意味があります。)

 今、私達が神の御前に出ることができる権利を持てたのは、私達を贖って下さった三位一体なるお方のおかげです。考えてみて下さい。普通の民がいつでもすぐに王様に会えますか。今、私達がいつでもどこででもすぐに王の王、主の主にお会いできるのは、すべてキリストの十字架と、聖霊の働きによるものです。

Text Box:   今日の聖書個所は、このエペソ2章の小さな結論であると言えます。これまでお話ししたことから、皆さんは、過去、外国人・異邦人であった自分が、今は、イスラエルの民であることがわかるかと思います。私達は今はもう神に選ばれた民同志で、神の大きな家族の一員になれました。なぜならば、私達は神を一家の主(家長)であると認めたのですから。

一.神の家族 (19節)

 「外国人」は国内にいる他民族の人を指します。「寄留者」は公民権のない外国人居留民を言います。信者はキリストの中においてはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民と同じ国の人になります。言い換えれば、それはすべての信者はユダヤ人、異邦人と分けられることなく、すべての者が共に神の国の民とされる権利に与るのです。

 神の家というのは神の教会を指しています。信者達はただ神の国の民になる権利が与えられるだけでなくお互いの間には親密な関係が出来るようになります。すなわち「家族」の関係です。このことから信者達の間に起きた困難や誤解はすべて家族の方法で解決するものだと分かります。家族に対して愛と希望をもって忍耐深く忠告するのです。決して相手を敵として対処しないようにするのです。

 本章11節の始めから、信者達がどのようにして神の家族になれたか、その過程に注意して下さい。すなわち教会が建てられる過程でもあります。そして除々に信者達の親密な関係についても説明しています。

 「神の家族であり」という御言葉を教会に対して言うならば、①お客さんになって他人に仕えられるのを待たないこと。家族である本分と責任を果たすべきです。②互いの間に愛を保つこと。どうすれば家族がリラックスでき、仲むつまじくなれるかを考えることです。③霊的な命の年長者と年少者との順序に従って互いに仕え合うこと。教会に秩序を持たせるためですが階級を作ってはなりません。④心を合わせて家を繁栄させていくこと。

二.キリストご自身がその礎石(かなめ石)20節

 信者はただ神の家族になるだけでなく、主の神殿になるのです。この神殿は「使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身である」(2:20)と書いてあります。

 「使徒や預言者」という土台とは、使徒や預言者達によって証しされた真理と教えです。預言者はキリストを預言し、使徒はキリストを証ししています。神は彼らを通して啓示された聖書の真理こそ、教会の信仰的な土台です。そしてイエス御自身がこの神殿のかなめ石で、最も重要な土台です。

 「使徒や預言者」という言葉は、神が教会にお与えになった二種類の賜物に言い換えることが出来ます。(4:11)使徒の賜物で最も明らかなものは新しい教会を建てる・・・開拓伝道ということです。現代の教会で言えば、それは宣教師の働きになっています。預言者の賜物は聖書の解説、信徒の訓練です。現代の教会で言えば、それは牧師と教師達の仕事です。教会を建てるのに、この二つの賜物が最も基本的なものになります。

 使徒と預言者の真理についての教えはもちろん必要ですが、かなめ石はもっと重要です。イエスキリストこそかなめ石です。牧師も宣教師も教会の発展に影響を与えます。しかし、それらは皆かなめ石ではありません。イエスの降誕、死と復活、そして昇天、再臨、それらが私達の信仰にとってのかなめ石です。イエスキリストがなければ、教会は成り立たないということを忘れないで下さい。

三.聖なる宮への成長 21節

 教会が主の聖なる宮であることを示したいならば、信徒達は必ず建てられなければなりません。しかも主によって組み合わされて成長しなければなりません。

 「建てられる」というのは、自由に独立し、自分で選んだりできないことを言います。主の御計画によって兄弟姉妹と一つになって主に仕えることです。

 「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えるになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。」(コリント第一12:4-6)

 教会が聖なる神殿となるには、信徒達も共に建てられなければなりません。真理において謙虚に学び、命において成長を追い求め、心から喜んで主の導きに従うことから始めて他の器官と組み合うようになります。

 使徒ペテロは自分の書簡の中でも似たような教訓を書き残しています。「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。」(ペテロ第一2:5)

Text Box:   これらの生きた石は職人さんの配置に従って、喜んで自分に与えられたポジションに着き、他の生きた石と組み合わされて、聖なる神殿になっていかなければなりません。

「聖なる神殿となります。」は、たえず神に建てられ、たえず成長するという意味です。いつ育つことをやめられるでしょうか。永遠に止まらないもので、主の最後の日が来るまで続きます。成長はどの程度で完成されるでしょうか。神の宮、神の聖なる場所になるまで続きます。これは信徒個人個人について言っていることですか、それとも教会全体ですか。エペソ4:13の「成熟した人間になり、キリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長するのです。」「成熟した人間となる」のは個人を指し、「キリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長する」は教会全体を指します。

パウロが心配しているのは、異邦人が主を信じた後も異邦人の教会、ユダヤ人の教会と、今では日本人教会、中国人教会、アメリカ人教会などを分けることです。しかし、これらの教会は全てイエスの体です。教会は一体なるものです。この体は主において聖別され主に用いられるようになります。この聖なる神殿は、主において建てられ、神の住まいとなり、聖霊様が御自分の民とともに住まわれる場所でもあります。そして全ての民達の祈りの家となります。(マタイ21:13)

結論 (22節)

 教会が神に喜んで住んで頂く聖なる神殿になるためには、長い期間建てられることが必要です。だから、私達は落ち着いて、そして忍耐深く神のなさるわざを待ち望まなければなりません。エペソ1章では神の御心や神の時、神の計画・・・に触れています。考えてみて下さい。エペソ2章の初めから、私達は、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのですが、後に神の家族となり、神の神殿として建てられるようになると言っています。このような大いなる変化はどこから来たのでしょうか。神が世を創造される前から定められていた贖いの御計画からではないでしょうか。そうであるならば、私達も頭を上げ、信仰を持って、栄光なる主が来られるのを迎えましょう。そして他の人々にも神のご栄光が見えるようにしましょう。

祈り:

 全能の父なる神様

 あなたの御言葉とお約束を感謝します。私達はもともと罪人で死ななければならないものでした。そのような私達のためにイエス様をお遣わし下さって、どうも有難うございます。主よ、あなたは私達人類の罪を担い、私達の罪のために十字架で死なれ、尊い血潮で洗い清めて下さいました。そして、私達に神の子供となる身分をお与え下さって、心から感謝いたします。

 主よ、どうか主の子供である私達が、いつもいつもあなたの家を思い、家を守り、家の中であなたに仕えることで学んでいくことができるよう助けて下さい。

 主よ、どうか、あなたの御言葉が私達の生活の力となりますように、それによって、前に向かって歩めますように。

 主イエスキリストの御名によってお祈りします。

 アーメン


 

寄稿


茶道具 中村支州子

如月の陽光にやや春めきを感じながらも、樹木はまだ芽吹かず、寂しげな枯れ木のような姿を見せている。枯草の下には春を告げる黄水仙をはじめ、たんぽぽ、すみれなどの春の草花が、ひそやかにも力強い若芽の用意を始めていることだろう。ふと、利休が愛誦したという歌を思い出した。

花をのみ待つらむ人に山里の、

ゆきまの草の春をみせばや

雪どけを待ちながら、ひそかに蓄積され、芽吹こうとしている大自然の生命力を感じさせる。ちょうど、この頃を詠ったものではないかと思う。何かしら手持ち無沙汰のある日、急にお茶の道具を出して見たくなった。

アメリカでも茶道に興味を持つ人もあると聞いて、少しばかりの茶道具を持って来た。しかし、薩摩焼きの短冊一揃えだけは飾り棚に並べてあったが、お茶などできる雰囲気ではないと、勝手に諦めていた。人間はふとしたことから、それを契機に心機一転して、何かに夢中になるものだ。私も今、十年近く放っておいたものを思い出したのである。雪に閉ざされた長い日々静かに蟄居していたことも一つのきっかけになったようである。

Text Box:  まず風炉を取り出し、敷瓦の上に据え、茶釜をかけてみる、風炉先屏風を出して開いてみると、上段三分の一は透かしになり、下段は濃紺地に金箔の駒形の連鎖模様の縁取りになっていて、日本情緒をそそる。この屏風一つだけでもお茶の雰囲気を醸し出してくれる。しかし絨毯の上ではどうもしっくりしない。そこで思い出したのが、何かの役に立つかもしれないと持って来た二畳敷きの花茣蓙であった。それを絨毯の上に敷き、屏風を立て、風炉釜を据え、丸卓を並べて、地板に水差しを、天板に茶器を飾る。これは「初飾り」と言った。続いて二飾り、総飾りなどと忘れていた用語が連鎖的に思い出された。黒楽のお茶碗にたたんだ茶巾を入れ、茶筅を入れ茶杓をかけ、建水に蓋置を入れ、柄杓をのせると、さすがにお茶を立ててみたくなった。しかし、長い間しまい込んであった茶釜は、そのままでは使えない。スイートポテト(日本ではさつま芋の皮を使う)を買って来て、茶釜でことこと煮て錆び抜きをしなければならない。今日は道具の点検のみと諦め、なお道具を取り出していると、その道具にちなんだ思い出が次々に懐かしく浮かんで来るのであった。

何一つ名品は持ち合わせていないのに、今アメリカで手にして見ると、どの品にも深い味わいがあり、胸が痛くなるほどに魅せられる。桐の柾目の茶通箱、真塗りの四方盆、天目台、天目茶碗、くりぬき盆、桐箱入りの濃茶用の茶器と御仕服の色々、扇子、象牙の茶杓、ふくさの色々、いずれを見ても日本独特の美術品である。濃茶入れの一つは、許しものの唐物か。志野焼の茶碗は、盆点を頂く時に謝礼のお返しに先生が下さったもので、今一つの濃茶入れは、弟子仲間に許しものを取る時のお相伴を頼まれてそのお礼に頂いたものである。当時のことがありありと蘇ってきて懐かしい。濃茶入れの中で良くお稽古使いにしていた文淋と、老松の割蓋つきの茶器は御仕服と共に自分の好みで求めたものであった。長緒の扱いがなかなか覚えられず、また、せっかく覚えても同じ習いごとが年に一度巡ってくるか来ないかで忘れてしまう。それを覚えるために求めたようなものであったが、今手にしてみると、その形は静かなる趣を供え、丹念に磨き上げられた木目の美しさ、小さな蝶番をどのようにして取り付けたものかと、優れた技巧に感服させられる。長緒の唐絹の渋い模様や、文淋の御仕服の珠光緞子の鈍い光沢が心を引きつける。今、道具の全てが名品に見えていとおしいほどの愛着を覚える。

数日が過ぎ、ようやく茶釜の錆抜きをすませて、お茶を点てることにした。プラントの鉢植えがぶら下がっているリビングルームに花茣蓙を敷き、屏風を立て、風炉釜、小棚を置いて、野点てさながらと思いつつお点前を始めた。しかし、長年怠けていたので、すべて忘れてしまっていた。初心に帰ってまずは割稽古からである。運び出し、茶点前から棚飾り、濃茶点前と、徐々に思い出しては来たが、正座が続かず、立居振舞いもおぼつかなく、人様に振る舞うようなことは出来そうもない。茶道具を全て飾りつけてのお点前は「仕組点」といって、「建水か蓋置に名品がある時のみの点前」と習った。そのような掟はよそに、仕組立の方法で一人でお点前をしたり、お客をしたり、他人様が見たら、まさに子供のままごと遊びと笑われるかもしれない。

ともあれ、今こそ真の茶の心にふれたような心地して一人無心の境地に遊ぶ一時となったのである。


 

 


ジョンソン美登里

月日が経つのは早いもので、父が亡くなってから一年が来ます。改めて、本当にクリスチャンに導かれ御言葉に触れることができて良かったと思います。神様のなされることは果てしなくて、それが一つ一つ示されて、それが感謝と喜びとして私の中に証しとして積み重なっていくことは、とても大きな恵みで、それらを大切に心の中に刻み込んで、少しでも多くの方に伝えることができればと思います。

父が危篤と報せが入ってから亡くなるまで二ヶ月弱の期間が与えられたことも神様のご計画であったのでしょう。神様は不可能なはずの私と子供達の日本への帰国を二度も実現して下さいました。また、最大の願いである父への福音のための全てを神様は整えて下さいました。カーメル教会のラッセル牧師、李牧師の働きで早急に帰国の途についた私の前に、それも、たった三日目にスウェーデン人で日本に25年間住んで来られた宣教師(牧師)の訪問を受けました。これは主人がウエブサイトでバプテスト教会の国際部に問い合わせて彼の情報を頂くことができたからです。彼の名前はケント・エデェフォスと言い、英語と日本語が上手に話されるので、主人とは電子メールで英語で連絡が取れ、父と母、姉と私には流暢な日本語で接してくれるという素晴らしい環境を与えて下さいました。

72才の父にとって牧師と対面することも、聖書の御言葉を耳にすることも初めて尽くしでしたが、ケント牧師の人柄に快い雰囲気を感じ取り、楽しそうに会話している父を見て、私もただただ感謝でした。

Text Box:  彼は、コリント人への手紙第一10章13節から「神様は真実なお方だから、あなた方を耐えることができないような試練に遇わせることはなさいません。むしろ耐えることのできるように試練と共に脱出の道も備えて下さいます。」と優しく支えて下さいました。彼は長い日本での宣教生活を終え、母国スウェーデンに帰る日を控えた忙しい合間をぬって度々病室に訪ねて下さいました。一時回復の後、容態が悪くなり病院が変ってからも、彼はまた病室に来て下さり、その時救いへの導きがなされました。亡くなる5日前のことでした。

父が救われたことは彼にとっても大きな証しであったようで、長年の日本での宣教生活の最後が父となり感動的だったと涙を流されました。そして父のお葬式にわざわざ参列までして下さいました。

クリスチャンである私達は、キリストの愛の中にいつもいるので、いつでも神様を求めて従って生きて行く上には多くの恵みがあり、多くの愛も教えて下さいます。

父に時間を下さり、私も子供達も貴重な思い出を刻むことができ、また、父に福音を伝えるために兄弟・姉妹をご用意下さり、実現して下さったことは、アメリカと日本とスウェーデンと言う、余りにも遠い距離間を奇蹟のように神様が整え、最善の方法で全てを益にしてくれたことの神様からの祈りの答えでした。

ローマ人への手紙8章28節「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには神が全てのことを働かせて益として下さることを私達は知っています。」

マルコの福音書11章24節「祈って求めるものは何でも、既に受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」

 

父の救いは、カーメル教会全体の大きな祈りと、私達家族を知って下さる日本人ミニストリーの方々の深い祈りに支えられ、導かれた神様からの恵みによるものです。本当に有り難うございます。

最後に、神様から油を注がれ、また神様に遣わされて最善を尽くして下さった方々に心からお礼を申し上げます。


 

 


 

 


ノアの大洪水 8

洪水以前の大気の状態、すなわち、2気圧、酸素濃度30%の状態では、人間の身体が驚くべき治癒力を発揮することが確認されています。通常一週間も10日もかかるような傷が、45分で完治したと言う報告があります。

私達は紫外線を浴びながら1気圧、酸素濃度約20%の空気中で生活しています。そこで私達の身体には、ガンや色々な不具合が生じ、せいぜい80年ほどしか生きられません。ところが、創世記に記されている洪水以前の人々は大変長命です。そしてそれが、一般に創世記が信じるに足りない神話だと思われる理由の一つになっているのですが、実は、それは水増しでも想像でもなく、事実だったと考えられます。

神は、本来人間を、紫外線などの有害放射線のない、酸素のたっぷりある空気中で生活するように創造されました。そして洪水以前の地球は、まさにその条件を備えていたのです。洪水以前の生き物達は、神が計画された通りの環境で生活していたので、長生きすることができたのです。彼らは長生きしただけではなく、身体のサイズも現在生きている子孫達、つまり現代人よりも大きかったのです。体が大きかったのは恐竜だけではありませんでした。創世記6章4節に「当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。」と書かれていますが、このネフィリムとは、恐らく巨人という意味でしょう。体長約30センチのコックローチや、羽の幅約2メートルのとんぼの化石が見つかっていますし、テキサスでは約30センチの猫の足跡や、約36センチもある女性の足跡の化石も発見されています。

化石だけではありません。モザンビークで身長3.4メートルの13才の少女がいたという報告もあります。彼女は150キロを持ち上げることができたそうです。また慶応大学の森教授が、密閉された地下室に酸素を送って気圧を高め、光ファイバーで光を取ってミニトマトを栽培したところ、2年後に約5メートルに伸び、903個のミニトマトがなったということです。しかも、その実はグレープ・フルーツほどもありました。そして9年後には10メートルにもなり、一万個の実をつけたそうです。神は生物を、それだけの可能性を持ったものとして造られたのです。私達の身体には、条件さえ整えば、それほど大きくなり、また長生きできるだけのポテンシャルがあるのです。

 

Text Box:  ウオーターキャノピーのない現在、大気は押さえるものがないため、NASAの観測によれば、地表から300キロメートル上空まで空気が拡散していると言います。高度33キロまで上昇した気球の記録があると言うことは、少なくとも気球を浮かせるだけの空気が、その高度まで拡散していることを示しています。

洪水以前の地球は豊富な酸素と、水蒸気を豊富に含んだ空気で覆われていました。いわゆるグリーンハウス状態です。世界中が温暖であり、どこにでも青々と草が茂っていました。それはグリーンランドやアラスカにもヤシ科の植物の化石が出ることでも理解できます。恐竜達も、草を求めて遠くまで行く必要がなく、少し歩くだけで充分な草を食べることができたのです。また気圧と酸素濃度が彼らの活動を可能にしていました。

恐竜が絶滅した理由は、隕石の衝突によって巻き上げられた塵に覆われて地球の温度が低下し、草が充分に得られなくなたっためだなどと、色々な説明が試みられていますが、気圧と酸素濃度の減少を除いては、充分な説明になり得ません。なぜなら、草の豊富な、暖かい熱帯地方にいた恐竜まで、なぜ絶滅してしまったのかという疑問には答えられないからです。もし隕石落下による寒冷化が原因であれば、アメリカ北部やカナダが厚さ2500メートルもの氷に覆われた氷河期でさえ、赤道付近は温暖であったのですから、その付近にいた恐竜達は生き延びることができたはずなのに全ての恐竜が死に絶えてしまいました。

なぜでしょう? 恐竜の心臓は体の大きさに比べて非常に小さいのです。仮に食料が豊富にあって、温暖であったとしても今の大気の状態では、体中に十分な酸素を送ることができないので、自由に動き回ることができず、十分食べることができません。恐竜は、酸素濃度と大気圧の減少のために絶滅せざるを得なかったのです。そして、それはなぜ起こったのかと言うと、創世記7章11節に書いてある「天の窓が開けて」起きたウオーターキャノピーの消滅のためです。

どのようにしてウオーターキャノピーが壊れ、大気圏の上の水(大空の上の水)が地上に降り注いだのか私には分かりません。聖書はそのことについて何の情報も提供してくれていないからです。ただ「天の窓が開けて」雨が40日40夜降り注いだと記しているだけです。

片山進悟

 


 

 

お知らせ

マンデー・ジャパニーズナイトは当分の間お休みさせて頂くことになりました。第3月曜日も通常どうり夕方7時からA238号室で聖書の学びを行います。どなたでも大歓迎です、どうぞ気軽な気持ちでご参加下さい。

 

「いのちの泉」は、シャーロット在住の日本人のコミュニケーションのための月刊紙を目指しています。皆さんも、どうぞ奮ってご参加下さい。お互いの向上に役立てるための趣旨に賛同して下さる内容であれば何でも結構です。Carmel Baptist ChurchJapanese Ministry 宛、またはcharlottejpm@hotmail.com にお願いします。

 

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