早いもので2003年も、もう半分が過ぎようとしています。日本はちょうど梅雨のシーズンでしょうか。私達も、まるで梅雨のような長い雨の日々を過ごして、やっとさわやかな夏を迎えましたね。今年初めて植えてみたトマトの苗は、たっぷりの雨を頂いて豊かに成長、沢山の実を付け始めました。まだ色づいてはいませんが、毎日眺めては、もぎたてのトマトを口に出来る日を楽しみにしています。皆様、お変わりなくお過ごしでしょうか?

6月の7、8日、ポートランドから横井マイク牧師をお迎えして、ノースカロライナの修養会がキャラウエイで行われました。ここ数年、ノースカロライナは日本人牧師不在のまま過ごしてきたのですが、今年はラーレイの横井サイモン牧師を始め、ジャクソンビルの向井満牧師、シャーロットのJoel Lovestrand牧師(日本人ではありませんが立派な日本語を話されます)、高見憲次牧師と4人もの先生方が参加されて、そのことだけでも神様の大いなる祝福を感じさせられた素晴らしい会となりました。

横井マイク先生は、「祈りは実践から」(7日)と「ビジョンある信仰と祈りの生活」(8日)について講演して下さいました。

「祈りは実践から」では、祈りは学びからは出来ないこと、実践を通してやること、実践の大切なポイントは聞く心・読む心・学ぶ心・暗誦する心・思い巡らす心など。聴くためには、心を閉ざしてはいけないこと。自分で自分を変えることは難しいが、キリストによって変えられること。キリストのようになろうと、祈りが聴かれるようにと思い巡らし、力ある方に求めよう。

「ビジョンある信仰と祈りの生活」では、絶えず神様と交わること。そのために、神様と自分だけの静かな時を持つこと。神様との交わりなしには健康的なクリスチャンにはなれないこと。

神様のために良い奉仕(祈り)をし、主によって日々造りかえられて成長しよう。

神様との交わりをするためには、短くても良いから時間を決め、一人っきりの静かな所を選び、毎日続けること。また、傍らに読み易い本やノート、讃美歌集を置いておくことも良い。

横井先生のお話の中で、「日本人は謙遜の故に大きな神様を小さくしてしまっている。神の栄光は弱さの中に現れる。祈りを通して神様のビジョンが与えられる」と語られたことも心に残りました。兄達によって隊商に売られたヨセフもビジョン人でした。私達もビジョンを持って祈りを捧げる時、大きな希望が与えられるのではないでしょうか。

横井先生がお話の中で上げられた聖書箇所は次のとおりでした。箴言3:6、詩篇25:4、29:2、37:4~5、テサロニケ5:17、マルコ1:35、ルカ5:16

 

 

 



イエス様が十字架におかかりになったのは、西暦30年4月7日でした。このことについて聖書自身はその日付を記しておりませんが、福音書の記録を調べた結果、今日では多くの牧師・神学者の間で一致しています。もちろん、そのために大きな参考となっているのはユダヤの暦と福音書の記録です。ユダヤの暦は、私達が現在使用しているカレンダーとは違います。そのため、毎年、受難週と復活節をお祝いする日付は移動しています。

今朝、皆様と一緒に捧げるこの礼拝で、私がお話したいと思いますことは、私達の救い主キリストは、十字架におかかりになられたキリストなのです。イエス様は十字架におかかりになられたからこそ、キリスト、すなわち救い主なのです。そのことを、聖書を通して順序立ててお話致しましょう。

私達の日本語集会の礼拝には、アラバマ大学や幾つかの大学に留学している学生達が出席しています。実は今週から来週にかけて学期末のテストが行なわれ、多くの交換留学生達は1年間の学びを終えて帰国致します。

イエス様の弟子達も1年ほど、イエス様と寝食を共にして親しく訓練と教育を受けてきました。今、イエス様は、教育目標を達成したかどうか、弟子達のテストをされました。勿論イエス様は、これまでも機会あるごとに小テストをされました。しかし、それらは余り良い結果を得られませんでした。イエス様は、度々弟子達のことを「信仰薄い者よ」と言って嘆いておられました。

今弟子達に、まず、世間の人々は私のことを誰だと言っていますか、と質問され、続いて「それでは、あなた方は私を誰だと言うのですか」と尋ねられました。弟子を代表してペテロが、「あなたは生ける神の子です」と答えたのです。その時イエス様はペテロに仰せになりました。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいます私の父です」と。言い換えると、人間では誰もイエスを神の子とは告白できない、ということです。主イエス様が目標として来られたところに弟子達が到達して前期試験の合格点を頂くことができたのです。しかし、そのことはペテロの知恵で悟ったというのではなく、父なる神様が御霊によって彼の知性を明らかに照らされたので、このように告白できたのです。

けれども、もうこれで全ての授業が終わり、卒業というわけではありませんでした。まだまだ授業は残っています。それは非常に大切な授業です。イエス様は、弟子達に大変なことをお告げになったのです。「その時からイエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老・祭司長・律法学者達から多くの苦しみを受け、殺され、そして3日目によみがえらなければならないことを弟子達に示し始められた。」

Text Box:  この時点では、まだイエス様のことをキリスト、すなわち神様が世に遣わされた救い主と告白しただけで、そのキリストがどのような働きをして私達を救って下さるのか明確に告白されていないのです。私達も、時には救い主とお呼びするのですが、どんなにして救われているのか、を深く思い巡らすことが必要です。イエス様は、この点を後期の目標に掲げて弟子達を教えていかれるのです。

ところがイエス様が、このようにご自分がユダヤの指導者達によって苦しめられ殺されねばならないと、ご自分の身に必ず起こることを明らかにされたのですがペテロはイエス様を引き寄せて、こともあろうに「そんなことがあなたに起こるはずがありません」と諌め始めたのです。イエス様は「殺されるかもしれない」などとおっしゃったのではありません。<苦しめられねばならない><殺されねばならない><よみがえらねばならない>と父なる神様の永遠からのご計画であり、旧約聖書の預言者達を通してお示しになられた預言であり、必ず起こらねばならない。もしそのことが起こらなければ、あなた方の救いも実現しないということなのです。それにもかかわらず、ペテロは「起こるはずがありません」と神様のお考えをひっくり返して拒否する姿勢をとるのです。無論、それはペテロが愚かにも神様の御言葉を知らず、自分の思い上がりに動かされてとった行動であり、言葉でした。

イエスはペテロの方を向いて、「下がれサタン。あなたは私の邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と厳しくお叱りになりました。まさに、神様のご計画と示された預言を否定し、神様の救いの計画を成し遂げるために遣わされたイエス様が、ご自分が成し遂げる使命をお告げになられたのに、そんなことが起こるはずもない、というのは、それこそサタンの考えです。

ここでは一点だけを申し上げておきたいと思います。ペテロは自分のことを罪深い者です、と言ったこともあります。しかし、その罪の深さとは、どれほどの深さを考えていたのでしょうか。それに応じた救い主を私達は考え出すのです。彼はイエスをキリストですと言いましたが、その時、彼は十字架のキリストは考えていないのです。自分は罪深い者ですけれども、死に値する犯罪者、背信の罪を犯しているとは認めていないのです。十字架のないキリスト教はキリスト教ではありません。それほどのことなのですが、この時にはペテロはまだ教育を受けている途中だったのです。この弟子達の状況は、主イエスの復活後まで続きます。

そんな弟子達にイエス様が仰せになった有名な言葉があります。「誰でも私について来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私について来なさい。」(マタイ16:24

これは、先ほどのイエス様の十字架の死の予告に続いて記録されています。それらの二つの記事の間には時間的な間隔が有ったのでしょうが、記者達は続けて書いています。ということは、時間的に続いて話されたというよりも、内容が切り離されないこととしているのです。イエス様が十字架におかかりになったことを、正しく理解するのは、自分が罪人であり神の憐れみに寄りすがる他には道がないと確信して、神の憐れみの現われとして死んで下さったイエス様を受け入れ、そのお方の十字架の死はまさに私の死を代わって死んで下さったのだ、と信じる人です。すなわち、日々に自分の十字架を負って、十字架のイエス・キリストに従う人がイエス様のまことの弟子です。

罪の自覚、悔い改めなしにキリストの十字架を正しく理解できる人はいません。不思議ですが、聖書は、イエス様がご自分の十字架のことを弟子達に語られたことに続いて、弟子達の間に起こったのは誰がえらいか誰が一番か、といったことを議論している姿だったことを記録しているのです。主キリストは、迷える羊のために命を捨てるために来られた良き羊飼いです。命を捨てて羊のために仕えるキリストを理解できるのはそれほどの救いを待ち望んでいる人です。カルバリの丘の刑場にさらさるべきは私です。その私のために、あなたのために、主は命を捨てるために来られたのです。私は、神が遣わされたキリスト、十字架のキリストによって、罪の赦しを頂きました。

神様は、救い主として遣わされた使命を従順に果たされました。ですから、父なる神様は、死人の中からイエス様をよみがえらされました。十字架に死んで、もはやどこにも存在しないお方を、今、私は救い主として勝手に信じているのではありません。私のために十字架にかかって死んで下さった犠牲が、父なる神様に受け入れられた証拠に、主は復活させられたのです。天に挙げられた生けるイエス様は、ご自分の犠牲の死を携えて神の右におられます。その死に訴えて、私達の赦しを得て下さり、神の民である、神の家族であると弁護し続けていて下さいます。これが私達のキリスト、救い主、十字架にかかり、神によってよみがえらされたキリストであります。その方がまた、あなたのキリスト、罪からの救い主なのであります。


 

寄稿   チャチ・ジーザス・ビデオ   片山進悟


ウイクリフが奉仕しているグループの多くは、識字率が低いので、私達は、字の読めない人でも参加できるように、翻訳者または翻訳協力者が台本を読み、それを話し手が覚えて、自然に言えるようになったところで録音するという方法を取り、これをプロンプター法と呼んでいます。

今回参加したチャチの人々は全員字が読めましたが、それでもマーティダスがプロンプターとして、それぞれの話し手のパートを読みました。彼は非常に厳密でイントネーションだけでなく、表現に至るまで注文をつけ、繰り返しやり直しを要求しました。そのため非常に時間がかかることもありましたが、結果として良い作品ができたと思います。

年上の人達も忍耐強く彼の注文に応じているのに感心しました。彼は20台後半ですが、ナレーターのパートも担当しましたので、全ての録音に必要な人物でした。

Text Box:  3日目に、「これは私の愛する子、これに聞け」という神の声をニールの声で録音し、効果を付けて聞いてもらったところ、彼らは非常に喜んで、「今日神がチャチに来られた。神がチャチの言葉を話された。」と言いました。

クライマックスになって、ペテロがイエスを三度否認した後、それを悔いて泣く場面では20才のダーウインが一生懸命演じました。ウイーブ夫妻も席をはずそうかと言ったほどの恥ずかしがり屋ですが、この場面を何日も前から練習していて、実際に泣きはしませんでしたが、心を込めた彼の告白に、聞いていたルースが涙を流すほどでした。

言語構造の違いのため、せりふと画面の口の動きを一致させることはできないのですが、録音も半ばになるとマーティダスは、口の動きとせりふをもう少し合わせられないかと要求するようになり、私もできるだけ工夫して要望に応えるようにしました。録音を終了し、全部を通して見た時に彼が時々手を叩いて喜ぶのを見て、私は彼らが満足する作品が出来上がったと自信を持つことができました。

十字架の場面では、95年に私自身がこの場面を見て泣いて悔い改めたことを思い出し、録音しながら思わず胸が熱くなりました。過去2回のジーザスビデオの録音の時にはなかったことです。神様があらためて、このような機会を与えて下さったことに感謝しました。

録音の後、編集作業をし、教会のリーダーなどに見てもらって、翻訳や表現の不適切な所はないか、言葉がはっきり聞き取れるかなどをチェックしてもらいましたが、土曜日でないと集まれないというので、ほぼ1週間待ちました。その間マーティダスとダーウインが作った御言葉に基づくチャチ語の歌を5曲録音しました。これはウイーブ夫妻が計画している聖書朗読と共に用いる歌です。また、私の専門ではありませんが、彼らのコンピューターのメモリー増設や翻訳用のソフトウエアーの更新なども手伝うことができました。

11日の金曜日、車で7時間かけてボルボンに行きました。そこは川の合流点で、カヌーの発着点です。土曜日にチャチの人達がカヌーを貸切って下って来ました。朝3時半に町を出発したと言うことです。彼らは編集作業の終わったビデオを見て、自分達の言語で唯一のビデオを非常に喜び、一日も早くこのビデオを他の人達にも見せたいと言っていました。特にホアンはみんなを代表して感謝の言葉を述べてくれました。それは、私達を送り出して下さっている皆さんへの感謝の言葉でもあります。

ビデオ上映は私達が泊まったホテルで行われました。シャワー・トイレ付きというキャッチフレーズの個室は、板の隙間から隣の部屋が見え、便器には便座がないという状態でした。水はタンクにためた雨水で、口をゆすぐには持参したボトルの水を使い、赤道直下のジャングル地帯とは言っても雨水を溜めたシャワーでは冷たく、タオルで体を拭くだけにしました。蒸し暑くて寝付かれず、やっと寝たと思えば雨漏りのため夜中にベッドを動かすという騒ぎをした挙句、3時半に鶏のモーニングコールサービスで起こされました。

蚊には咬まれなかったと思うのですが、マラリヤ予防薬は、その後4週間飲み続けました。

上映開始後約20分、突然停電しました。電気が来るように祈った後、発電機を探しましたが、ボルボンには無く、2時間離れたエスメラルダスまで買いに行くことになり、南部バプテストの人達がまさに出発しようとした時、電気が来ました。またも主の守りがあったのです。

チャチの人達は、その日のうちに町に帰りたいと、ビデオを見終わった後帰って行きました。私達も、もう1泊する必要がなくなったので、彼らを送り出した後出発し、真夜中過ぎにキトーに着きました。

翌日は日曜日、ウイーブ夫妻の行っている教会に出席した後、南部バプテストの宣教師のアパートで時間を過ごし、夕食後、空港に送ってもらいました。すると3時間前だというのに多くの人が並んでいました。悪天候のため金曜日、土曜日と2日もキャンセルになったため、その人達が席を確保するために並んでいたのです。ミッショントリップの若者グループや、教会のボランティアの人達でした。11時ごろようやく待合室に入って、ほっとしたのも束の間、飛行機は上空まで来ているけど着陸するかどうか分からないと言う話が聞こえてきました。しばらくするとキャンセルと言うアナウンスが入り、みんな一斉に荷物を受け取りに行きました。また行列です。

一日待っても帰れるとは限らないから何とかしてエクアドルを出る方法を考えなければと航空会社と交渉し翌朝7時発のニューアーク行きに変更してもらいました。他の二つのグループも同様に変更し、それぞれ空港で夜明かしをしました。こうしてシャーロットを通り過ぎてニューアークまで行き、乗り換えて夜9時ごろシャーロットに着いて、この旅が終わりました。

以上、一つ一つに皆さんのお祈りによるご支援があったことを感謝します。また、この間、家族も守られ、私達は安心して、任務を果たすことができました。

 

 

 


心のマッサージ                                                     Tyndale出版 Robert C. Savage

「いつもお前はわしのぼんやりばかり責めるが、抜けておるのはどっちかな。見ろ、お前は自分の傘を教会に置き忘れたが、わしは自分の傘とお前のを持ち帰ってやったぞ。」「それは結構ですけどあなた。私達、今朝は傘を持って出ませんでしたわよ。」

 
 


8才になったブライアンが、近所にお呼ばれに行った時のこと

その家の奥さん「ブライアン坊や、手伝わなくても一人でお肉切れるかしら。」

ブライアン「うん、大丈夫。家でも同じくらい固いお肉、食べてるから。」

 

 


ノアの大洪水 9

次に地殻変動について考えてみましょう。神が初めに天地を創造された時、天が今の天、すなわち大空とは異なっていたのと同様、地球もまた、今の地球とは異なっていました。創世記1章9節に神が「天の下の水は一つ所に集まり、乾いた所が現れよ」と命じられたことが記されています。その時、海と陸ができました。この時に最初の大規模な地殻変動が起こったのです。このことは、先カンブリア紀地層とカンブリア紀以降の地層の間の不整合を理解する上で重要です。

御言葉によって、それまで水に覆われていた地表面に変化が起こりました。すなわち、陸地が隆起してきたのです。そして一つの大陸と一つの海ができました。このように陸地の姿も現在の陸地の姿とは全く異なっていたことを理解する必要があります。(ペトロの第二の手紙3:3~7)

その大陸には、それほど大きな山もなく、どこも同じように温暖な気候であったと思われます。後に現在のグリーンランドやアラスカになる土地にさえヤシ科の植物が生い茂っていたのです。今は分厚い氷に覆われている南極大陸にも、川の跡があり、氷の下には大きな湖まであることがそれを示しています。おかげで恐竜を始めとするあらゆる種類の動物達が、充分な食料を得ていたに違いありません。

しかし人類の罪は覆いようのない状態になり、ノアを通して神は警告を発せられましたが、誰一人として耳を傾けませんでした。そして、ついに神の忍耐の時も過ぎ、神の裁きが下されました。創世記7章11節に「この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け」と大きな地殻変動が起ったことが記されています。また「水はますます勢いを加えて地上にみなぎり、およそ天の下にある高い山は全て覆われた。水は勢いを増してさらにその上15アンマに達し、山々を覆った」(創世記7:19、20)と書いてあります。現在の地球を考える時、誰がこれを信じられるでしょうか。エベレスト山は8,848メートルも有るのに、その頂上よりも更に約7メートル上まで水が覆い、しかもその水深が世界中に及んだと言うのなら、到底受け入れられるものではありません。そんな大量の水が地球上に有るはずがないし、もし有ったとすれば洪水の後それだけの水がどこに行ったのかと言う疑問が出るでしょう。多くの人がこの部分を神話だと考える所以です。しかし私達は再び、ペトロが言う今の天と地は初めのものとは違う(第二ペトロ3:6)ということを思い起こす必要があります。

まず、地球には全表面を覆うだけの水があることを思い起こしましょう。地表の70%は水で覆われ、残りの30%が陸地であり、海の平均深度は3,795メートル、陸地の平均標高は840メートル。すなわち地球表面を均せば全ての陸地は水面下に沈むことになります。今の地球には、地表面全体を覆えるだけの水が有るのです。洪水の前、神が最初に創造された地球には、さほど高い山脈のない一つの大陸がありました。聖書が言っているのは、その山々の頂上も全て水に覆われたということであって、ヒマラヤが水に沈んだということではありません。ヒマラヤなどの高い山は、洪水の後の地殻変動によって作られたのもです。聖書は、地球上にあった、ただ一つの大陸が洪水によって水面下に沈んだと言っているのです。ペトロが言うように水によって滅ぼされたのです。

Text Box:  8章2節に、深淵の源が閉じられたと記されているのは、神が地殻変動を起こされたことを言っています。それによって深海が作られ、同時に陸地が隆起した部分もありました。そこで、その様な部分では陸地から水が引いて行ったのです。ヒマラヤなどの非常に高い山々で貝などの化石が発掘されることから、これらの山々もある時は海の底であったことが理解できます。全ての地面は、洪水の時水の下にありましたが、神の御意志に従って、隆起し、地球は現在の形になりました。     片山進悟

 


 

 

お知らせ

毎月第2と第4火曜日9時半から、A240号室でエクレシアの会という、肩のこらない形での聖書の学びと楽しい交わりの集まりをしています。どなたでもお気軽にどうぞ。お問い合わせは片山順子姉704-843-8038。

 

高見憲次牧師が移住してこられ、6月15日から日曜学校を担当して下さっています。現在はガラテア人への手紙を学んでいます。日曜9時半からA231号室です。あなたも、この学びに加わりませんか?

月曜日夜7時からはラブストランド牧師による聖書の学びが行われています。A238号室です。