パレスチナ問題について(日曜学校ノートから)

毎日のように悲惨な殺戮の様子がメディアを通して流れてきます。皆さんもきっと心を痛めておられることとでしょう。私達を愛していて下さる天の父なる神様の嘆きの大きさを思わずにいられません。どうしてパレスチナ問題は解決しないのでしょうか。

今回はこのことについて考えてみたいと思います。

この地域に住んでいる人達のルーツについて創世記10章を読んでみましょう。エジプト人、カナン人(現在のパレスチナ地方に住み着いた人々)、そして(少年ダビデが倒した巨人ゴリアテ達)ぺリシテ人はハムの子孫であることが分かります。一方、11章に詳しく述べられていますが、アブラハムはセムの子孫です。そしてアブラハムが、妻サラの下女によって得た子がイシュマエルで、神は、彼の子孫も大いなる民族にするが、アブラハムへの神の約束を受け継ぐのは妻サラの子イサクであると言われました。(創世記17:20)このイサクの息子がヤコブ、後のイスラエル、すなわちユダヤ人の先祖です。そしてイシュマエルの子孫がアラブ人で、主に現在のサウジアラビアとヨルダンに住んでいます。つまりアラブ、イスラエルはセム人であるのに対して、エジプト、シリア、レバノンなどはハム人なのです。

さてパレスチナという名は、紀元70年のマカベアの乱を鎮圧したローマ帝国が、ユダヤ人を辱めるために旧敵ぺリシテ人に由来させて、この地域をそう呼んだことが始まりです。ぺリシテ人はダビデの時代には現在ガザ地区と呼ばれている地域に住んでいましたが、その後民族としてのアイデンティティーを失ってしまいました。結局パレスチナ人とは特定の民族名ではなく、パレスチナに住む人という意味で、最初は20世紀の初めパレスチナに帰還してきて、がリラヤ湖の北の湿地帯を開墾し始めたユダヤ人に対して用いられました。また、イスラエルを非難するため、イエス・キリストを、最初にユダヤ人に殺されたパレスチナ人と呼んだパレスチナの指導者もいました。

パレスチナ問題の起源は何かと言う時、イスラエルの独立が契機になったとは言えるでしょう。しかしイスラエルの独立宣言の翌日にエジプト、ヨルダン、シリアなどの連合軍がイスラエルに攻めかかっていますから、根はそれ以前にあったと見るのが妥当でしょう。

旧約聖書に記されているユダ王国の滅亡以後、ユダヤ人の祖国再建の切なる願いにも関わらず、アラブ、ユダヤを問わず、この地域には独立した国が存在したことがなく、常に大国の領地になっていました。最も新しいのは16世紀以降のオスマン・トルコの支配です。その長い間アラブ人とユダヤ人は他の民族と一緒に、この地域で共存していました。ですからパレスチナ問題を、長年のアラブとイスラエルの対立・抗争の延長と捉えるのは間違いです。

19世紀後半、世界各地に散っていたユダヤ人の中に、先祖の土地に帰ろうという動きが起こり、特に迫害を受けていたロシアから多くのユダヤ人達がパレスチナに帰り始めました。

第1次大戦の時イギリスは、トルコとの戦いを有利にするため、アラブ人の国を作るという約束をしてアラブ人の協力を得、パレスチナのトルコ軍に勝ちました。その時のエージェントがアラビアのロレンスです。イギリスは同時にユダヤ人の協力をも得るためバルフォア宣言といわれる書簡を出してユダヤ人のパレスチナ帰還に理解を示しました。ところが戦争が終わった時、イギリスは国際連盟から、委任統治権を獲得してパレスチナを支配し始めたのです。

第二次大戦が起きて中東が再び戦いの場となった時、地域の人々を敵に回さないために、イギリスは過去の約束を実行せざるを得なくなり、シリア・レバノン・エジプト・ヨルダンなどが独立しました。そしてこれらの国々はアラブ連盟というものを作りました。パレスチナに住むユダヤ人達も独立を求めていましたが、イギリスはこれには応じようとせず、ユダヤ人は反英闘争を始めました。ナチスの迫害を逃れてきた人達を迎えて、再びあのような惨事を避けるためには自分達の国を持つ他ないと決意したユダヤ人達の独立闘争は激しさを増し、とうとうイギリスはさじを投げて委任統治を放棄し、国連に委ねました。そして国連は1947年11月、パレスチナ分割決議をします。それは、ほぼ現在のイスラエルの領域を二つに分けてユダヤ人の国とアラブ人の国を作るというものでした。

ユダヤ人はこの案を受け入れましたが、アラブ人(アラブ連盟諸国)はこれを拒否し、国連の決議案履行日に独立を宣言したイスラエルに攻めかかったのです。

この時アラブ諸国は、ユダヤ人を根絶やしにするつもりでした。またそれが可能だと信じていました。何しろイスラエル人は89万人しかいなかったのですから。そして攻撃を容易にするため、パレスチナに住むアラブ人に避難するように告げました。その地域にいる者は誰かれなく攻撃できるようにするためです。

アラブ諸国は、自国はもちろん中東からユダヤ人を駆逐すると宣言していましたが、イスラエルはアラブ人でも何人でもイスラエル人になれると言いました。そこで、アラブ諸国の通告にもかかわらず、11%のアラブ人が立ち去らずに残り、イスラエル国民となりました。

悲惨なのは、すぐに自分の家に戻れるばかりか、近所のユダヤ人の持ち物も自分達の物になるというアラブ諸国の宣伝を信じて立ち去った人々です。全滅するか生き残るかの戦いに、女性や少年までが死力を尽くして戦ったイスラエルが勝ったため、帰るに帰れなくなってしまったのです。このような人々が約50万人いたといわれています。これがパレスチナ難民の始まりです。

パレスチナ自治政府の統計によると350万以上の難民がいます。初め約50万だったのに、なぜ今そのように沢山の難民がいるのでしょうか。どうしてアラブ諸国は仲間達を自分の国に引き取らないのでしょうか。

これについては次回分析したいと思います。それまでの間次のことを考えてみて下さい。爆弾攻撃によってイスラエル人に死傷が出た時、現場が映され、救急車が走る光景はTVに出ますが、苦しむ人、悲しむ人の表情は出ません。一方、パレスチナ人の場合、嘆き悲しむ母親の姿が、かなり長くアップでTV画面に映し出されます。この違いは何でしょうか?

片山進悟

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