キリストの愛

今日は私がどうして宣教師として日本に行ったかを証しさせて頂きます。私は台湾で生れました。父は保健所の医者でした。1976年1月に肝臓癌で亡くなりましたが、私が小学校の時、医者になるようにと言いました。ですから私は医者になることを志していました。医科大学を受験しましたが受かりませんでした。人生の希望を全く失ってしまった私は初めて神に祈りました。「大学に入りたいので助けて下さい。」翌年再び受験し、幸いにも合格しました。でも医学部ではなく文学部でした。大学に入るまで私はイエス様のことを聞いたことがありませんでした。大学で沢山のクリスチャンが「一緒に教会に行きませんか。」と誘ってくれましたが、私は一度も行きませんでした。大学入試の前の祈りも忘れてしまったのです。私は自分の力によって大学に入ったのだと思い上がっていました。

大学を出てから一年間軍務に服しました。軍隊生活はとても淋しかったです。その間ガールフレンドに聖書を貰いました。そして教会に行き始めました。ある日、私は教会の特別伝道集会に行って、聖霊に導かれ、福音の奥義が初めて分かりました。そこで自分は罪人であることが分かり、そのためにイエス様が十字架にかかって死なれたこと、そしてよみがえって下さったことを信じて、主イエス様を私の個人的な救い主として受け入れました。六ヶ月後、私はバプテスマを受けました。1970年6月のことでした。

7月に軍隊を除隊してから社会福祉の仕事をしながら、同時に教会で奉仕を始めました。1972年、私はガールフレンドと結婚しました。5年の後、「神学校に行きなさい」という神様の召命がだんだん強くなってきました。私は確信を持って、仕事を辞め、家内と一緒に台湾の神学院で聖書の研究を始めました。三年間の勉強を終えてから、すぐアメリカの南部バプテスト神学校でもう一度勉強しました。c

 

卒業した後、1983年にアメリカの国内宣教師になってオハイオ州デイトン市で中国教会の開拓伝道を始めました。神様の祝福を頂いて、教会は7年後に100名にもなり非常に成長しました。しかし私はいつも神様の御旨を感じて日本で伝道することができるように祈っていました。

1990年3月、私の祈りはとうとう実現しました。宣教師として7週間の訓練を受けてから、家族と一緒に日本に行きました。

 

1975年7月、父の肝臓癌を突然知った時、本当に驚きました。父に福音を伝えるのが遅すぎたと感じました。これが私が神学校に入った一つの大きな理由です。もう一つの理由はキリストの愛です。キリストは私の罪のために十字架につけられたのです。ここに神の愛が現わされています。聖書にこう書いてあります。(エペソ3章17から19節)

この「広さ、長さ、高さ、深さ」は何でしょうか。これはキリストの愛です。キリストの愛は十字架の愛のことです。十字架は愛の印で、教会の印です。ですから教会は愛の印のはずです。十字架の愛は、このような「広さ、長さ、高さ、深さ」を持っています。

では、その広さとはどのくらいなのでしょうか。

キリストの愛はユダヤ人だけでなく、遠く異邦人にまで及んでいます。キリストの愛は人種を越え、民族を越えて全ての人に及んでいます。「天の父は、悪い者にも良い者にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らせて下さるからである。」キリストの愛にもれている人は1人もいないのです。

その長さとはどのくらいなのでしょうか。

これはキリストの愛の無限に続くもの、その愛の忍耐の限界を語っているのです。それは限りのない者です。「私は限りなき愛をもってあなたを愛している。」とエレミヤ31章3節にあります。主イエス様が最後まで弟子達を愛されたように、私達にも最後まで愛を傾けておられるのです。

その高さとはどのくらいなのでしょうか。

キリストの愛は罪人を神のこの栄光にまで引き上げる愛です。キリストと共に生かし、共によみがえらせ、共に天の所に座らせて下さる愛なのです。これは罪の泥沼に沈んでいた者を洗い清めて、主と共に栄光の座につかせて下さることを言っているのです。

その深さとはどのくらいでしょうか。

神の愛はキリストを通して人間の堕落のどん底にまで届いています。その深さは人間の言葉では言い表すことはできません。サマリアの女を更正させ、姦淫の女を赦し、清める愛、人の心の深淵にまで届く愛なのです。

この愛をキリストは十字架の上で現わして下さいました。

十字架の上で現わされたキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ、そしてまた細やかさ。皆さんはキリストの愛に細やかさがあることに気づいておられるでしょうか。マタイ10章30節「また、あなた方の頭の毛までも、みな数えられている。」父なる神の愛は、髪の毛一筋に対しても表されているのです。広さ、長さ、高さ、深さに加えて、何と細やかな愛でしょうか。

この愛をもって教会の兄弟姉妹が互いに愛し合い、また隣人を愛し、このような証しを通して周りに伝えられることによって、神の栄光が現れるのです。しかし、この世界は神が初めて創造された理想的な世界ではなく、罪によって人間関係と、人と神との関係が壊されてしまいました。神のご計画は全ての人がキリストの愛の中に入ることです。そして、これは教会の召命であり、責任なのです。教会の責任は「神はそのひとり子を賜ったほどにこの世を愛して下さった。」というグッドニュースを伝えることです。まず自分でキリストの愛を受け入れて、満ち溢れて、そして他の人に分かち与えることができるのです。

愛する皆さん、キリストの愛を受け入れませんか。どうぞ心を開いてキリストの愛を受け入れて下さい。神様はあなたに素晴らしい人生を与えることができるのです。

 

 

家内と一緒に教会で奉仕することが一番の楽しみです。