イースターの意義

マルコ16:9~20

今日はイースターです。皆さんと一緒に「イースターの意義」について考えてみたいと思います。イースターは今この時、この場所において、どんな意味があるのでしょうか。私が伝えたいメッセージは、「出て行き、福音を伝えなさい」ということです。福音を伝えることは、私達の責任です。福音を伝える最終目標は、人々に復活の主を知らせることです。現代人はキリストの復活を中々信じることができません。無理もありません。マルコによる福音書16章11~13節に、よみがえられたイエスを見た人達が、他の弟子達に知らせた時、誰も信じなかったのです。

何人かの婦人がイエスの身体に香油を塗るために墓に行きましたが、イエスの身体は見当たらりませんでした。天使は彼女達に「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」と言いました。(マルコ16:6)

「ナザレ人イエスが死からよみがえられた。物質的な肉体の束縛を離れ、新しい命に入られた。」これがキリスト教会が何世紀にもわたって伝えてきたメッセージです。「キリストが復活されなかったのなら、私達の宣教は実質のないものになり、あなた方の信仰も実質のないものになるのです。」(Iコリント15:14)

キリストの復活は、キリスト教会が伝えるメッセージの中心です。神の啓示によるのでなければ、人はこの事実を理解することができません。しかし、神は特にその復活の過程について示されていません。ただ「彼は(イエスは)死からよみがえった。」としか仰せられていません。神の仰せられたことを信じるか信じないかは、人が神に対して持っている観念によって決められるのです。もし、ある人が神を宇宙万物の一部に過ぎないと考えているなら、神は自然法則に制約され、自然法則を超越できないのですから「復活」も考えられないと、その人は思うでしょう。しかし私達が信じている神は、御自身が造られた宇宙よりも偉大です。言い換えれば、もし、その神が聖書によって啓示されている神であれば、詩編33:9にも書いてあるように「まことに主が仰せになると、そのように成り、主が命じられると、そのように立つ。 」のです。全能の力で全てを支配することができ、無から有を造り出され、全ての素晴らしいものを存在させることのできる神が、例え私達に復活の過程を説明していなくても、私達は天使の告げた「神はあの方を死からよみがえらせた。」この一言を安心して信じることができるのです。

ここで私はまた一歩進んで説明したいのですが、復活の事実は、ただ信仰によってのみ受け入れることができるのです。復活を科学で証明することはできません。同じように神の存在を証明することもできません。しかし、神は存在しない、キリストは復活しなかったと証明することは、それよりもはるかに難しいのです。

「キリストは復活された」と伝え続けて来たキリスト教会が絶えず発展し続けてきたことこそ、キリストの復活を証明する最も良い証拠です。使徒パウロは言いました。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ10:9)このパウロもキリストの復活の証人です。キリストの弟子達を迫害し続けて来たパウロが、復活されたイエスに出会って使徒とされたのですから。

私達はどのようにしてキリストの復活を証しすることができるのでしょうか。

第一に、使徒達を手本にすることです。私達はキリストの復活を証明することはできません。しかし、使徒達の証は私達の助けになります。主は復活することによって、御自分の十字架の意味を変えられました。考えてみて下さい。主の弟子達は十字架をどんなに恐れていたか。彼らは主のために、また自分達のために十字架を恐れていました。マタイ16:21でイエスが、「御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者達から多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子達に打ち明け始められた」時、ペトロはイエスをわきへお連れして、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」といさめ始めたと記録されています。ペトロがこのように言ったのは、もし主が死んでしまわれると、全ての望みがなくなると弟子達は思っていたのです。主は絶えず御国について語っておられましたので、主が亡くなられたら、その御国もなくなると弟子達は思っていたのです。彼らは本当に十字架を恐れていました。彼らはただ十字架の暗い一面しか見ていません。十字架は恐ろしいものです。弟子達は自分の目で、主が捕らえられ、殴られ、十字架につけられた事実を見たから逃げ出してしまったのです。しかし、主の復活は十字架の意味を変えました。十字架恥と恐怖の印でしたが、栄光の印に変えられました。復活の主が自分達に現れた愛で、恥だと思っていたものを恥とは思わないで喜びました。弟子パウロはピークに達し、このように言いました。「しかし、この私には、私達の主イエス・キリストの十字架の他に、誇るものがあってはなりません。」(ガラテア6:14)

使徒達の証しは今日、私達の手本となります。そしてまた自分の体験を加えつつ、主から絶えず神の愛と、復活の力、命の力とを受け入れれば、私達も主の証しをし、主の復活と言う素晴らしい知らせをまだ聞いたことのない人々に伝えることができるのです。これはまた私達の責任でもあります。

第二、教会信徒の責任

私達は周りの人々を教会に誘って、彼らにこの新しい力と命を体験させるために出て行かなければなりません。福音を伝えたくても、どうすれば良いか分からないかもしれませんが、実はとても簡単です。礼拝に誘えば、やがて主に近づきたい思いも湧いてくるでしょう。そして、説教メッセージの中から慰めが得られるようになります。私達がこのように人を導けば、主の復活を証しすることになるのです。全ての人が復活の主に出合えること、信じるようになることを私達は切に願っているのです。なぜならば、私達の人生を意味のある、そして豊かなものにしてくれる主は、他の人にも同じ恵みをお与えになると信じているからです。人を教会の礼拝に誘うのは私達の責任であるだけでなく、私達の喜びにもなるのです。

第三 信徒の生活による証し

私達の生活は主イエス・キリストの復活を証しできるものでなければなりません。友達に身体の弱みや生活の困難が有ると分かったら、同じ気持ちでいたわって上げられるように、祈り、主の力で助けて上げられるようにすることです。このことから彼らに神の愛を体験させることができるのです。

他の人の必要を私達は理解しなければなりません。人には身体と魂の必要があります。そして身体も魂も癒しが必要です。なぜならば、その人全体の健康、身体も魂も癒されることを主は常に心配しておられます。

信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」 マルコ16:17、18

パウロ自身も毒蛇に噛まれても害がなかった経験をしました。(使徒28:3~16)私達は使徒ではないので、彼らほどの信仰はないかもしれません。文面にとらわれてクリスチャンには不思議な力があるに違いないとか、毒蛇をつかんでも大゛勝負だなどと無理に思わなくても良いと思います。でも、ぜひ皆さんに先ほどの御言葉の背後にある真髄、そしてクリスチャンの強い信念を理解して頂きたいのです。その意味と言うのは、特別な力があって、私達の生活上のどんな困難にも対応できると言うことです。日常生活で毒蛇をつかむよりも危険なことはないでしょうか。毒薬を飲むよりもっと苦しいことを体験してはいませんか。もし、あるのなら、どのようにして解決しているのですか。クリスチャンが頼りにしているのは復活の主の力です。復活された主は世間の全ての苦難に打ち勝ったことの証しです。

 

今日はイースターです。この日本人ミニストリーも4年目に入ります。その間私達は私達だけで戦って来たのではありません。復活の主が常に共におられて、このグループの頭となられ、導き、共に働いて下さっています。今日のマルコの福音書の最後のメッセージは次のように教えてくれています。クリスチャンはいつまでも十字架につけられ、そしてよみがえられた主イエスと共にいるということです。主イエスがいつも共にいて下さり、主の力がいつも私達の生活を支えて下さっているということです。私達が生活の中で、主が共におられる証しができれば、そのような私達を周りの人々が気がつけば、私達が主の弟子であることが分かってもらえます。また主イエスの御名が高く上げられた時、多くの人々を引き寄せることができます。今日私達は教会でイースターを祝っています。でも人が教会に来るのを待っていれば良いというものではありません。神は私達に外に出ていって、福音を人々に伝えなさいと遣わされていることを忘れないで下さい。弟子達は「出ていって、至るところで福音を宣べ伝えた。」彼らは自分達の小さな世界に閉じこもらずに、広い世界に出て行きました。私達も教会の建物やクリスチャンの交わりの中から広い世界に出ていって人々に福音を伝えましょう。私達が出ていって福音を伝えること、個人伝道の訓練、これらのことは、その日とその人の信仰による勇気も非常に重要です。どうかこれからはこのような訓練をすることができれば良いと思います。個人伝道は、一体どこまで伝道すれば良いでしょうか。それは相手が信じるまでです。もし人を信じるまで導けなかったら、まだ責任が果たされていないことになります。恐がらないで下さい、復活の主が共にいて下さるから。主が共にいて下さることが、福音を伝える時の最も素晴らしい主の約束と保証です。主は蘇られました。信仰を持って出て行きましょう。信仰を持って教会を続けて行きましょう。どうか今年のイースターを通して、信仰の意義を再び見つけることができるように願っています。祈りましょう。

イエス様、今日はあなたのよみがえられた日です。どうかあなたの助けを私達にお与え下さい。いつまでも共にいて下さい。阻止てこの教会とも共にいて下さい。この教会が勇気を持って続けて行けますように守って下さい。主の御名によってお祈りします。アーメン