十字架のキリスト

マタイ16:13~28

イエス様が十字架におかかりになったのは、西暦30年4月7日でした。このことについて聖書自身はその日付を記しておりませんが、福音書の記録を調べた結果、今日では多くの牧師・神学者の間で一致しています。もちろん、そのために大きな参考となっているのはユダヤの暦と福音書の記録です。ユダヤの暦は、私達が現在使用しているカレンダーとは違います。そのため、毎年、受難週と復活節をお祝いする日付は移動しています。

今朝、皆様と一緒に捧げるこの礼拝で、私がお話したいと思いますことは、私達の救い主キリストは、十字架におかかりになられたキリストなのです。イエス様は十字架におかかりになられたからこそ、キリスト、すなわち救い主なのです。そのことを、聖書を通して順序立ててお話致しましょう。

 

私達の日本語集会の礼拝には、アラバマ大学や幾つかの大学に留学している学生達が出席しています。実は今週から来週にかけて学期末のテストが行なわれます。そして多くの交換留学生達は1年間の学びを終えて帰国致します。

イエス様の弟子達も1年ほど、イエス様と寝食を共にして親しく訓練と教育を受けてきました。今、イエス様は、教育目標を達成したかどうか、弟子達のテストをされました。勿論イエス様は、これまでも機会あるごとに小テストをされました。しかし、それらは余り良い結果を得られませんでした。イエス様は、度々弟子達のことを「信仰薄い者よ」と言って嘆いておられました。

今弟子達に、まず、世間の人々は私のことを誰だと言っていますか、と質問され、続いて、「それでは、あなた方は私を誰だと言うのですか」と尋ねられました。弟子を代表してペテロが、「あなたは生ける神の子です」と答えたのです。その時イエス様はペテロに仰せになりました。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいます私の父です」と。言い換えると、人間では誰もイエスを神の子とは告白できない、ということです。主イエス様が目標として来られたところに、弟子達が到達して前期試験の合格点を頂くことができたのです。しかし、そのことはペテロの知恵で悟ったというのではなく、父なる神様が御霊によって彼の知性を明らかに照らされたので、このように告白できたのです。

けれども、もうこれで全ての授業が終わり、卒業というわけではありませんでした。まだまだ授業は残っています。それは非常に大切な授業です。イエス様は、弟子達に大変なことをお告げになったのです。「その時からイエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老・祭司長・律法学者達から多くの苦しみを受け、殺され、そして3日目によみがえらなければならないことを弟子達に示し始められた。」

この時点では、まだイエス様のことをキリスト、すなわち神様が世に遣わされた救い主と告白しただけで、そのキリストがどのような働きをして私達を救って下さるのか明確に告白されていないのです。私達も、時には救い主とお呼びするのですが、どんなにして救われているのか、を深く思い巡らすことが必要です。イエス様は、この点を後期の目標に掲げて弟子達を教えていかれるのです。

ところがイエス様が、このようにご自分がユダヤの指導者達によって苦しめられ、殺されねばならないと、ご自分の身に必ず起こることを明らかにされたのですが、ペテロは、イエス様を引き寄せて、こともあろうに「そんなことがあなたに起こるはずがありません」と諌め始めたのです。イエス様は「殺されるかもしれない」などとおっしゃったのではありません。<苦しめられねばならない><殺されねばならない><よみがえらねばならない>と、父なる神様の永遠からのご計画であり、旧約聖書の預言者達を通してお示しになられた預言であり、必ず起こらねばならない。もしそのことが起こらなければ、あなた方の救いも実現しない、ということなのです。それにもかかわらず、ペテロは「起こるはずがありません」と神様のお考えをひっくり返して拒否する姿勢をとるのです。無論、それはペテロが愚かにも神様の御言葉を知らず、自分の思い上がりに動かされてとった行動であり、言葉でした。

イエスはペテロの方を向いて、「下がれサタン。あなたは私の邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と厳しくお叱りになりました。まさに、神様のご計画と示された預言を否定し、神様の救いの計画を成し遂げるために遣わされたイエス様が、ご自分が成し遂げる使命をお告げになられたのに、そんなことが起こるはずもない、というのは、それこそサタンの考えです。

一つの点だけをここで申し上げておきたいと思います。ペテロは自分のことを罪深い者です、と言ったこともあります。しかし、その罪の深さとは、どれほどの深さを考えていたのでしょうか。それに応じた救い主を私達は考え出すのです。彼はイエスをキリストですと言いましたが、その時、彼は十字架のキリストは考えていないのです。自分は罪深い者ですけれども、死に値する犯罪者、背信の罪を犯しているとは認めていないのです。十字架のないキリスト教はキリスト教ではありません。それほどのことなのですが、この時には、ペテロはまだ教育を受けている途中だったのです。この弟子達の状況は、主イエスの復活後まで続きます。

そんな弟子達にイエス様が仰せになった有名な言葉があります。「誰でも私について来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私について来なさい。」(マタイ16:24

これは、先ほどのイエス様の十字架の死の予告に続いて記録されています。それらの二つの記事の間には時間的な間隔が有ったのでしょうが、記者達は続けて書いています。ということは、時間的に続いて話されたというよりも、内容が切り離されないこととしているのです。イエス様が十字架におかかりになったことを、正しく理解するのは、自分が罪人であり神の憐れみに寄りすがる他には道がないと確信して、神の憐れみの現われとして死んで下さったイエス様を受け入れ、そのお方の十字架の死はまさに私の死を代わって死んで下さったのだ、と信じる人です。すなわち、日々に自分の十字架を負って、十字架のイエス・キリストに従う人がイエス様のまことの弟子です。

罪の自覚、悔い改めなしにキリストの十字架を正しく理解できる人はいません。不思議ですが、聖書は、イエス様がご自分の十字架のことを弟子達に語られたことに続いて、弟子達の間に起こったのは誰がえらいか、誰が一番か、といったことを議論している姿だったことを記録しているのです。主キリストは、迷える羊のために命を捨てるために来られた良き羊飼いです。命を捨てて羊のために仕えるキリストを理解できるのは、それほどの救いを待ち望んでいる人です。カルバリの丘の刑場にさらさるべきは私です。その私のために、あなたのために、主は命を捨てるために来られたのです。私は、神が遣わされたキリスト、十字架のキリストによって、罪の赦しを頂きました。

神様は、救い主として遣わされた使命を従順に果たされました。ですから、父なる神様は、死人の中からイエス様をよみがえらされました。十字架に死んで、もはやどこにも存在しないお方を、今、私は救い主として勝手に信じているのではありません。私のために十字架にかかって死んで下さった犠牲が、父なる神様に受け入れられた証拠に、主は復活させられたのです。天に挙げられた生けるイエス様は、ご自分の犠牲の死を携えて神の右におられます。その死に訴えて、私達の赦しを得て下さり、神の民である、神の家族であると弁護し続けていて下さいます。これが私達のキリスト、救い主、十字架にかかり、神によってよみがえらされたキリストであります。その方がまた、あなたのキリスト、罪からの救い主なのであります。