恵みの上に更に恵みを

ヨハネ1:14~16、Ⅰコリント15:8~10

キリスト教会は本当に恵まれた教会です。どうか私達は、ただ神の恵みに預かるだけでなく、たえず「恵みの上に更に恵みを」ということで、神の恵みと祝福に与らせて頂きたいと思います。

今日はヨハネとパウロの証しから、また神の御言葉を通して、主の恵みの素晴らしさを皆さんと味わいたいと思います。しかも、味わうだけではなく、満喫したいと思うのです。そうすれば、神とはどんなに素晴らしいお方か、そして神に頼る者がどんなに幸いであるかが分かります。

 

1、ヨハネの証し

ヨハネがここで言っている「恵みの上に更に恵みを受ける」とは、どういう意味があるでしょう。明らかに「恵みの上にまた恵みを加える」ということです。すなわち、どの必要にも応じられる恵みのことです。ちょうど主イエスが言われたように「私の恵みはあなたに十分である」と同じです。(Ⅱコリント12:9)

ヨハネの福音書のテーマは、私達がイエスを信じて、命を得ることにあります。(ヨハネ20:31)命を得た人にはどんな恵みが与えられるでしょうか。イエス・キリストが「言葉が肉となって、人となった」ことによって、人類の救い主となられたのです。私達は主イエスを通して、霊的な命、限りのない愛、完全な贖い、艱難の時の助け、満ちに満ちた喜び、心にある安らぎなどが与えられます。主は十分な恵みと真理に満ちておられるお方です。私達も信仰経験の中でその恵みが取るに尽きず、用いるに尽きないものであることが分かります。一つの恵みが与えられたと思えば、もう一つの恵みがまた加えられて来ます。

「恵みの上に更に恵み」のギリシア語原文は、「恵みにまた恵みが続く」の意味があります。ここには二つの意味があります。

1、キリストの内にあって私達は一つの奇蹟を通して、もう一つの奇蹟に気づくことができます。一人のお年を召された宣教師が、ある古い国家の国王に福音を伝えに行きました。王は宣教師に聞きました。「もし私がクリスチャンになったら、一体何が得られるだろうか。」宣教師は答えて言いました。「クリスチャンになれば、あなたは奇蹟にまた奇蹟を得ることができます。しかも、どの奇蹟も真実なものです。」

私達は時々、感動するほどの素晴らしい景色に出会えます。どの景色も現れた時には、それを一番きれいだと思うでしょう。しかし、角を曲がった途端に思いも寄らないもっと素晴らしい景色が目の前に現れてきます。山登りも同じでしょう。山頂に着いて、一番高い所に来たと思っていたら、他にも自分が登った山よりも高い山がある事が分かるのです。物事に対する観点も同じように更に高く遠くを見ることができるようになります。音楽や美術を習ったりすることも同じです。永遠に止まることがないのです。新しく、しかも美しい経験が延々と求める人を待っているのです。キリストに対する認識も同じです。イエスを知れば知るほどますます主イエスの大きさを感じることができます。イエスと長く生活をすればするほど、沢山の愛すべきことに気づくのです。主イエスを考え、思えば思うほど、与る恵みも更に多くなります。ヨハネは先ほどの御言葉でキリストの限りの無さを表し、人々がもしキリストの恵みの中にいるのなら、たえず神の新しい御業に気づくことができると説明しています。毎日、彼の生活(命)の中に現れます。ただ命を得るだけでなく、しかも豊かに持つことができます。(ヨハネ10:10)

 

2、恵みにまた恵みが

文字で解釈するとキリストにあって恵みに続いてまた恵みに与るという意味です。人生の中で、違う時代や違う環境に、それぞれ違う恵みが必要です。豊かな時にはその時の恵みが必要で、貧しい時にまたその時に必要な恵みがあります。若い時に必要な恵み、年老いた時に必要な恵みがまた違います。教会が迫害された時に必要な恵み、歓迎されている時の恵みがあります。人生の良い時での恵み、意気消沈し挫折している時、失望に満ち、気落ちした時に必要な恵みがそれぞれあります。私達の肩にある重荷は主の恵みによって担って頂く必要があります。同時に他人の重荷を共に担おうとする時に必要な恵みもあります。私達は物事に対して全て知っている時には、その時の恵みがあります。また何事も知らない時には、その時の恵みがあります。神の恵みはいつも同じパターンではありません。活発的なもので、環境のいかなる変化にも適応するものです。必要な時にその必要に応じた恵みが与えられます。新しい必要には新しい恵みがあります。私達の一生は恵みにまた恵みが与えられます。主の恵みはどのような環境変化にも応じられるものであることを神に感謝します。

 

二、パウロの証し               Ⅰコリント15:8~10

パウロの証し、彼の恵みに対する感じ方を見てみましょう。コリント人への第一の手紙の15章は、主にイエス・キリストのよみがえりについて書いています。今日の聖書個所にはパウロの証しが入っています。恵みの賛歌と言っても良いでしょう。パウロは「神の恵みによって、私は今の私になりました」と言っています。これは彼が、その時の自分の身分と地位は、神の救いの恵みによって与えられたものであることを指して言っています。彼はかつてダマスコへの路で主が彼に現れたのを思い返して語っています。(使徒9:1~9)イエスがよみがえり、人々にご自分の姿を現わされましたが、パウロはそれを見た最後人でした。なぜかと言うと、彼はキリストが昇天された後に主に出会ったのです。

パウロは「月足らずで生れた者と同様な私にも、現れて下さいました」と語っています。これは彼が謙って言っているのです。彼が自分を未熟児にたとえて言ったのは、イエスの福音を聞いてすぐに従ったのではなく、イエスが復活された後に救いの恵みに与ったからです。彼は熱心なユダヤ教とでした。しかも強力に神の教会を迫害していた人でした。彼は自分が「使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です」と言いました。そして、過去の自分の愚かさと今日に与えられた身分と地位を思って主の恵みに感謝していました。彼の、恵みに対する感謝と言うのは、自分伝道が成功したから、多くの教会を建てたから、偉くなったからを指して言っているのではありません。過去に教会を迫害していた時の無知な自分と、今の状況にある自分とを比べて言っています。主が今、どれだけ彼を用いているか、そして彼がどんな人に変えられたかを考えて、全て神の恵みによるものであると彼は言っているのです。彼は神の恵みを裏切りたくなかったのです。ですから、彼はどの使徒(弟子)よりも、働きに励んでいました。これは彼の奉仕を指して言っています。彼は主のために働き、力の限りを尽くして過去に失った時間を取り戻したかったのです。

ですから、ここでの「恵みの上にさらに恵みを加える」と言う言葉には二つの意味があります。

Ⅰ、身分・地位の恵み

一つ目の恵みは身分と地位の恵みです。昔の自分を今の自分比べて、神の恵みを見出すのです。過去を振り返って、今の自分と比べてみると、今の方が更に進歩し、霊的に置いても成長したことが分かると、私は嬉しくなります。そして神の恵みに感謝します。感謝すればするほど、神の恵みが更に多くあることが分かるのです。ちょうど詩編の中にもありますように、「あなたは、その年に、御恵みの冠をかぶらせる。」(詩編65:11)これはどういう意味でしょうか。神の御恵みの大きさをパウロは知っていました。クリスチャンが信仰の道を歩み、日々神の恵みに与り、神の御手によって冠が作られ、一人一人の頭にその冠がかぶせられます。そして主の御前に立った時に、それがもっとも栄誉のあるものとなります。

Ⅱ、奉仕の恵み