まことの礼拝        イザヤ6章1節から8節

 

聖書に現れる礼拝の起源はカインとアベルの礼拝です。創世記4章3~5節を開いてみましょう。神様はカインの供え物と彼の礼拝を顧みられませんでした。アベルの供え物と彼の礼拝は神様の御心に適ったので顧みられました。その理由は何でしょうか。色々な理由がありますが、カインはまことの礼拝を捧げたのではなく、アベルはまことの礼拝を捧げたのです。

まことの礼拝を捧げることは非常に大切です。神様は霊とまことによって礼拝する者達を求めておられるのです。「神は霊であるから、神を礼拝する者も、霊とまことをもって礼拝すべきである。」(ヨハネ4の24)

霊とまことによって礼拝しなければ、神様は目を留められません。礼拝のまことの意味が分からない者達に礼拝を捧げることを押し付けてみても意味がなく、むしろ神様の栄光を遮る結果をもたらすこともあります。私達は、まことの礼拝の意味と必要性をしっかりと理解して礼拝しなければなりません。礼拝の対象は人間ではなく、神様だけに礼拝を捧げることを認識しなければなりません。

今日はイザヤの礼拝を通して、まことの礼拝の模範を探してみようと思います。最初に礼拝の場所(1~3節)について考えてみます。神様を礼拝する場所はどこでしょうか。神様がおられる場所というならば、全て天地が礼拝の場所であります。しかし、神様は礼拝の場所を特別に指定しておられます。場合によっては野外で、職場で、課程で、学校などで礼拝を捧げることがありますが、それはウィークデーの集会の性格を表わしています。主日の礼拝は神様の家・教会で捧げなければなりません。

今日の個所によるとイザヤは、ウジヤ王が死んだ年に神殿で礼拝を捧げました。1節に「私は主が高く上げられた御くらに座し、その衣の裾が神殿に満ちているのを見た」と書いてあります。神殿に神様の衣の裾が満ちて、神殿でまことの礼拝を捧げる時、神様はその礼拝を顧みられます。神様の衣の裾は、神様の憐れみを表わしています。新約で、朱の衣の裾に手だけ触れた者さえ癒され、問題が解決したのに、神殿に神様の裾が満ちて私達にかぶさり、覆って下さる時、どんなに大きな神の体験が私達の生活に起こるでしょう。

2節によると、神様の御座には、六つの翼がある天使達が神様を礼拝して仕えていました。神様は聖なる主ですから、二つの翼で顔を覆っているのは、神様と直接顔を会わせる者がいないことを意味しています。二つの翼で両足を覆っているのは、私達を隠して下さるという意味です。二つの翼で飛び交っていることは私達の奉仕の活発さを意味することです。私達は神様に礼拝を捧げる模範を天使から学ばなければなりません。

3節に、その天使達は互いに呼び交わし、唱えた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな万軍の主。その栄光は全地に満つ。」と天使達は、神の聖さと、その栄光を宣言しました。ですから、神殿は神様の聖さと神様の栄光を宣言する場所にならなければならないのです。神様の礼拝堂は、聖別されて、神様の栄光を宣言して賛美する場所にならなければなりません。

4節に、「その呼ばわっているものの越えによって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。」この表現は神様の栄光を表しているのです。

 

二番目に、まことの礼拝と自己発見について考えてみましょう。5節、「その時私は言った。「災いなるかな。私は滅びるばかりだ。私は汚れた唇の者で、汚れた唇の民の中に住む者であるのに私の目が万軍の主を見たのだから。」まことの礼拝は、神様を見るだけでなく、自分自身の罪をも発見しなければなりません。神様の栄光を見たイザヤは、すぐ自分自身が神様の前に、どんな存在であるかを悟り、声を上げて悔い改めたのです。

神様の前で義である人は誰もいないのです。「全ての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなってしまうのです。」(ローマ3:23)神様を見た瞬間、全ての人は自分の罪を悟らなければなりません。自分が罪人であるという事実を悟らない人々は、まだ神様を見ていない人達です。

イザヤは神様の栄光を見て、すぐ自分が罪人であることを悟り、その罪から来る報酬は死であるという事実をも悟って「災いだ。私は滅びるばかりだ。」という叫びを上げたのです。まことの礼拝は自分自身の罪を発見して悔い改めが伴わなければならないし、神様に赦しを求めて罪の赦しの恵みを受ける礼拝でなければなりません。イザヤは神殿で神様に会い、自分の罪を悟って悔い改め、人の罪までも見ることができるほど恵みを受けました。

三番目に、まことの礼拝と恵みの体験について考えてみましょう。6、7節「するとセラフィムの一人が私のところに飛んで来た。その手には祭壇から火ばさみで取った炭火があった。彼は私の口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」天使の一人が祭壇から火ばさみで炭火を取って飛んできてイザヤの唇に触れさせました。これは罪の許しの恵みでした。

人間の罪が清められることは人間の力でできることではなく、神様の子羊としていけにえになったイエス様の流された血潮の力だけが可能にするという事実を示しています。その祭壇はイエス・キリストの贖いを意味し、私達はイエスを通して罪の赦しの恵みを受けるのです。イエス・キリストは十字架の上で御自身の血潮を流され、聖なる祭壇を造られました。祭壇は火が必要です。火は燃やされた聖霊の火です。主イエス様が十字架の上で死んで、復活された後、聖霊を遣わして、主が御自身の身体の血を流して立てられた祭壇の上に火のように燃やしておられました。

聖霊の働きは罪人達に罪を悟らせ、罪を告白させ、イエス様を救い主として信じる時に、罪を赦し、救いに至らせることであります。救われた人々の体を聖なる宮として使っておられます。祭壇に炭火が燃え上がるように、聖なる宮となった聖徒の心の中には、聖霊の火が燃え上がっているのです。その意味は、聖霊様が私達の心の中で、聖潔、感動、感化、内住、内在、満たし、交わりをなさるということです。

四番目に、まことの礼拝と召命について考えてみましょう。8節に「その時、私は主の御声を聞いた。誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。私は言った。「私がここにおります。私を遣わして下さい。」神様の栄光を見る時、自分自身の罪を見て悔い改めるならば、私達は神様の恵みで、新生、即ち新たに生れる体験をすることができます。

人は霊的に新たに生れ、霊的な人になって神様の霊の声を聞くことが始まりです。神様の声は神の宣教のために働き人を探す声です。イザヤは神の声を聞いて「私を遣わして下さい」と懇願しました。

まことの礼拝は、奉仕、労苦、献身につながらなければなりません。神様の恵みを体験した人々は、イエス様の証人となって世に向かって福音を伝えて行かなければならないのです。特に旧約時代の神の民が、内側に集って礼拝のために来る運動ならば、新約時代の教会の信徒達は、集って学び、礼拝、賛美、祈り、聖書、交わり、また神を体験した後に全世界に向かって宣教を進んで行く運動と見ることができます。私達は今、この運動の中で進んで行くのです。マタイ28:19には「それゆえ、あなた方は行って全ての国民を主の弟子にしなさい」というのは、まさに新約時代の教会に課せられた宣教の使命そのものです。

 

結論

まことの礼拝は、まず上を仰ぎ見ることです。イザヤは神殿に入って一番先に上を仰ぎ見たのです。即ち神様の御座を仰ぎ見たのです。神様の神殿で上を仰ぎ見る人は、神様の聖さと栄光とを見ることができます。その次には内側を眺めました。即ち、自分自身を眺めました。自分自身を眺める人々は自分の罪を発見して悔い改めて赦しの恵みを受けるのです。その次には外側を眺めました。即ち、時代的な使命を自覚して、次の世代に進んで行く決心をした責任を取るのです。

イザヤの体験は今日私達も必ず体験しなければなりません。イザヤはまことの礼拝を通して、このような体験をしました。私達も、まことの霊と心からの礼拝を通して、毎日神様と出会って、自分自身を発見して、罪の赦しの恵みを受け、新生と聖霊を体験して、使命を実現する神の国のために、このような聖徒になることができますようにと祈っています。

愛する兄弟姉妹の皆さんは、まことの礼拝を捧げることを願う者の一人ではありませんか。