「祭壇を築き」

皆さんに一つお聞きしたいのですが、皆さんはこの教会の日本人ミニストリーに対して、どんな夢をお持ちですか。教会の発展と信徒の信仰とは関連しています。教会がもっと広く、深く、質と量によって発展するならば、教会の兄弟姉妹の霊的な信仰も続けて少しずつ、日々の中で進歩しなければなりません。キリストについての初歩の教えを後にして成熟を目指して進んで行かなければなりません。それは「基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。」(ヘブライ6:1)ということです。これは信仰のレッスンです。

今日アブラハムの生涯を通して、私達が彼に学ぶことが有るでしょうか。勿論です。彼は信仰の父と言われた人で、私達は彼の生涯から多くのことを学ぶことができます。彼はまた、神の友と言われ、神に対する従順は私達にとって学ぶべきことです。「その頃主がアブラハムに現われ、そして『あなたの子孫に私はこの土地を与える』とおおせられた。アブラハムは自分に現れて下さった主のために、そこに祭壇を築いた。」創世紀12章において、主はアブラハムに言われた。「あなたは生まれ故郷、あなたの父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。」アブラハムは、この旅路の中で、新しい土地に入った時、すぐ主のために祭壇を築きました。祭壇は、彼の生活の中心、命の中心でした。さらに彼の家庭の中心でした。彼はいつも自分の心を、自分の未来の旅路、自分の家庭を祭壇の上に置いています。未来の約束の地が彼の思っている中心地ではなく、祭壇が彼の中心地です。

愛する兄弟姉妹、私達の生涯はアブラハムのように、一刻も祭壇を離れることができないのです。人生の旅路の中で、どの段階も祭壇が有ります。私達の生命には祭壇が有ります。生活には祭壇が有ります。仕事には祭壇が有ります。家庭には祭壇が有ります。詩編84:4雀さえも棲み家を見つけました。「あなたの祭壇に鳥は棲み家を作り、つばめは巣をかけて雛を置いています。万軍の主。私の王、私の神よ。」つばめも雛を入れる巣、祭壇を見つけました。

アブラハムの一生は祭壇の生涯であったことが神に祝福された重要な鍵です。私達もアブラハムのようにすべてを祭壇にささげることができるようになりたいものです。

 

もっと高い祭壇を築くことです。

これらの事の後で、神はアブラハムを試されました。神が『アブラハムよ』と呼びかけ、彼は、『はい』と答えると、神は命じられました。「あなたの息子、あなたの愛する一人子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」創世紀22:1~2

9節、「二人は神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。」愛する兄弟姉妹、もし私達がもっと豊かな生命を羨むなら、もっと神の祝福を期待するなら、祭壇の生涯に至るまでに止まってはいけません。ただ献金をささげ、礼拝を守るだけでもう十分だと言う訳では有りません。祭壇の中でもっと高い祭壇を築くことができるようになる必要があります。この意味は、献げの中で、もっと完全な献げを献げなさいと言うことです。

アブラハムは新しい所に行くたびに祭壇を築きました。祭壇を築くたびごとに彼の霊的生命が更新されました。しかしアブラハムはもう十分だとは言いません。彼はもっと高い祭壇を見ていました。もし私達がもっと高い祭壇を見るなら、これは神が私達にもっと祝福を与える時です。

ある日神様はアブラハムに命じられました。「あなたの息子、あなたの愛する一人子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物として献げなさい。」

アブラハムは神様に「私は献げることについては、もう十分にしました。」とは言いませんでした。彼は羊、牛、家庭、仕事、全ての物の十分の一を献げました。しかし彼は、愛する一人子イサクを焼き尽くす献げ物として献げなさいと神が言われるのを聞いた時、もっと高い祭壇を見ることができたのです。アブラハムは次の朝早く、献げ物に用いる薪を準備して、三日かかって神の命じられた所に行きました。自分の息子を祭壇の上にささげることは容易では有りません。これは大きな犠牲を払わなければなりません。

神はアブラハムの心を知った時、言われました。「あなたがこのことを行い、自分の一人子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたが私の声に聞き従ったからである。」(創世紀22:16~18)

愛する兄弟姉妹、私達はもっと高い祭壇が必要です。もし私達にもっと高い祭壇がなかったら、私達の霊的命の成長が停止します。もっと完全に献げることがなかったら私達の命は成長することができません。

ある兄弟の証です。彼はいつも礼拝の時、特別賛美(独唱)を歌っていましたが、ある日こう祈りました。「神様、以前私は賛美をささげましたが、今は私自身をささげます。」その後、彼の賛美が違ってきました。もっと素晴らしい賛美に変ったのです。

今日私達がアブラハムの生涯を見る時、一つのポイントはとても意義深いです。神御自身が感じられた御自分の愛する一人子イエスキリストを、この世の為に死に渡されるという苦しみを、アブラハムにも感じさせられました。アブラハムは、このような苦しみを味わったこの世でただ一人の人です。

父親が自分の一人子をささげる決断をして、子供は完全に従って行きました。ですからイサクはキリストを象徴するのです。これは永遠に記念されるべき出来事です。愛する兄弟姉妹、神に完全に喜ばれることができるまで、ずっとささげることを止めてはいけません。その時あなたの信仰が更新されるのですし、教会が本当に復興することもできるのです。

「父なる神様、アブラハムの生涯からあなたが私達一人一人に望んでおられる信仰について学ぶことができましたことを有り難うございます。主よ、私達自身を献げ物として献げることができますように、また生涯を通して主の祭壇を築き、もっと高い主の祭壇を仰ぎ、神様の栄光を現わすことができますように助けて下さい。」
「苦難と慰めの意味」第2コリント1:3~7

今日この個所でパウロは彼の苦しみの経験を話しています。この個所の背景は、使徒行伝19章に載っています。これはパウロがエフェソで伝道のために苦しみを受けたことです。パウロはこのことについて後で、この苦しみの経験を思い出して、この苦しみの中で慰めを受けた、この苦しみは益となったと言っています。「苦しみにあったことは私に良いことです」と詩編の作者が言うとおりです。(詩119:71)

多くのクリスチャンが口で、または理性では「苦しみが益になる」と言う聖句を理解しますが、しかし実際の苦しみの中では沢くの人が不平を言うのです。これは彼らが、まだ苦しみが益になると言うことを知らないことをハッキリ現わしています。ですから今日のこの個所で、パウロは私達に素晴らしい教訓を与えているのです。

私達にはこの世において、必ず苦難があります。主イエス様がこう言われました。「あなた方には世で苦難がある」しかし「あなた方が私によって平和を得るためである」(ヨハネ16:33)ですから私達は苦難に対してどんな態度をとるべきでしょうか。これは私達の霊的信仰と人生の態度に大変影響を与えるのです。

苦難は私達に神の慈しみと憐れみを認識させるのです。3節「私達の主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かに下さる神がほめたたえられますように。」ここで注意しなければならないのは、この「ほめたたえる」という言葉は次の聖句の苦難の教訓と結びついているのです。ですから神は、クリスチャンが苦しみを受けることを許しています。そして苦しみが私達の益になることがほめたたえられるのです。

パウロが苦難を受けたにもかかわらず神をほめたたえることができるのはなぜでしょうか。苦難は私達にもっと深く神の慈しみと憐れみを認識させるのです。もし苦難がなかったら、私達は父である神がどんなに慈愛に満ちた父であるか分かりません。もし苦難がなかったら、神がどのような危険な状況の中で私達を助けられたか、命の危機の時どのように神の救いが達成されたのか知らないのです。苦しみにあったその時、私達は神がどれほど慈愛に満ちた父であるかを知るのです。

もう一つは苦難自身が神の愛を表わすと言うことです。ヘブライ12:11「およそ鍛練と言うものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」苦難に際して私達は損をするのではなく、かえって、その中で霊的祝福と益を受けるのです。これは物質的面で何がが私達に与えられることではありません。その時、私達は苦難自身が神の慈愛そのものであることが分かります。例えば彫刻家が木で作品を彫る時、必ずナイフで刻みます。作品を完成する前に木を切ることは一つの慈愛であり、この木に対する好意であります。同じように神は色々な苦難を通して私達を神の作品にするのです。

 

苦難が私達に慰めを与えます。

「神はあらゆる苦難に際して私達を慰めて下さるのです。」これはパウロ自身の経験です。彼はエフェソでの騒動が起った時、耐えられないほどひどく迫害されて、生きる望みさえ失ってしまいました。しかし、神は彼を守って慰めを与えて下さいました。この慰めによってコリントの信徒に同じ慰めを与えたのです。「私達も神から頂くこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」

神は人を通して私達に慰めを与えられます。しかし、神からの慰めを頂く人は必ず苦難にあった人です。苦難に遭って、そして神からの慰めを頂いた人は、苦難の中にある人をどのように慰めることができるか分かるのです。

「キリストの苦しみが満ち溢れて私達にも及んでいるのと同じように、私達の受ける慰めもキリストによって満ち溢れているからです。」キリストの苦しみとは何でしょうか。キリストの苦しみは十字架の苦難です。贖罪の苦難です。これは私達の贖罪のために流された十字架上でのキリストの血です。十字架の苦難はただキリストお一人で忍び受け入れましたが、誰もこの苦しみを分かち合う人はいませんでした。しかしキリストの苦難にはまた、もう一つの意味があります。これは私達が分かち合うことができます。これはキリストがどのように教会の誕生のために、すなわちキリストの体を建てるために産みの苦しみを受けたかということです。

使徒パウロはガラテアの信徒のために常に祈っていました。ガラテア4章19節に「私の子供達、キリストがあなた方の内に形つくられるまで、私はもう一度あなたを産もうと苦しんでいます。」キリストの体を建てるために彼はいつも色々な苦難に遭いました。彼は教会に言いました。「今や私はあなた方のために苦しむことを喜びとして、キリストの体である教会のためにキリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」(コロサイ1:24)キリストの苦しみと私達が主のために受ける苦しみとは違います。キリストが苦しみを受けた時、誰も同情する人はありませんでした。「彼は同情者を待ち望みましたが、一人もいません。」(詩69:20)しかし私達が主のために苦しみを売れるのは主と共に、主の慰めを受けるためなのです。私達は一人きりではありません。

苦難が人に益を得させる。

苦難はただ主の慰めを受けるようにするだけでなく、人に益をも得させるのです。6節「私達が悩み苦しむ時、それはあなた方の慰めと救いになります。また、私達が慰められる時、それはあなた方の慰めになり、あなた方が私達の苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。」パウロはここで苦難の価値と意義を一層深く・高く説明しています。苦難は私達一人一人の神に対する認識をもっと深めるように助けます。また私達の霊的信仰を、もっと豊かに経験させます。さらに私達が苦難の中で得られた慰めを、あらゆる苦難の中にある人々のために分かち合うようにさせるのです。苦難の最高の意義は、ただ苦しむ人が益を売るだけでなく、また神に栄光をささげることにあります。ですから私達が苦しみを受ける時はいつでも、損ではなく、いつも益になると思うようにしましょう。多田か身の慰めを得るだけではなく、また神に用いられて、苦難にある人々に慰めを与えることができます。また神に栄光を現わすことができます。

パウロは最後にこの話を終わる時、コリントの信徒に対する慰めを現わしています。7節「あなた方について私が抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなた方が苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると私達は知っているからです。」苦難と慰め、この両方はつながっています。神は神の子供達に、この両方を経験する必要があると命じています。もしただ教会に苦しみがあるだけで慰めがなかったら、パウロはコリントの信徒達が耐えることができるとは思っていません。しかし、この両者があったらパウロはコリントの信徒に対して何も心配することがありません。

苦難と慰めとは分けることができません。実際に慰めは苦難に頼っています。慰めとは何でしょうか。これは昇天のイエス・キリストが霊を通して人の心に住んでいるということです。見えないけれども私達は永遠のことを確信しています。神の変らない愛を確信しています。この愛は復活の主からのものです。この無限の慰めは私達がキリストの苦難によって味わうものです。ただキリストの苦難が満ち溢れれば溢れるほど、主の慰めを私達は受け入れることになるのです。

 

天のお父様、主の苦難は恵みと慰めの引き立て役となっています。感謝です。どうぞもう一度この苦難と慰めの意味を考えさせて下さい。今日の恵みを感謝します。


「一致を保て」フィリピの信徒への手紙2:1~11

このフィリピの信徒への手紙が一つの特別な手紙であると言うのは、普通はパウロが自分の書いた手紙の中で、自分のことについて余り話していなかったからです。しかし、このフィリピの信徒への手紙の中でパウロは、自分の心を開いて、自分の信仰経験・自分の奉仕の経験を兄弟姉妹に分かち合ったのです。この一つの原因はパウロのテサロニケでの伝道の経験でした。テサロニケで伝道した時、神様がパウロを良く用いて福音伝道に大いに成功しました。しかし、あるグループはパウロに反対しました。そしてテサロニケの教会を思い出した時パウロは少し挫折感かを感じました。しかしフィリピ教会を思い起こした時、パウロの気持ちは違います。フィリピの信徒達のパウロに対する態度も違います。

フィリピは金持ちの教会ではなかったのですが、福音を受けた後「テサロニケにいた時にも、あなた方は私の窮乏を救おうとして何度も物を送ってくれました」とパウロが書くような教会だったのです。フィリピ教会はパウロの福音伝道をサポートしていました。だからパウロとフィリピ教会の親しい関係が良く分かりました。この手紙をパウロはローマの獄中で書いたのですが、この手紙には喜びの言葉がいっぱい書いてあります。パウロはこの手紙で、フィリピの信徒達の気持ちを、よく表わしています。フィリピの教会には一つの感謝と喜びがあります。それは一同のために福音に預かることです。

この手紙によるとフィリピ教会には、他の教会のような信仰問題がありません。しかし、なぜパウロはフィリピの信徒を励まし、一同のために祈り、共に福音に預かるのでしょうか。フィリピの教会には独自の問題があったのです。教会内部の信徒と信徒の間に不一致があることがパウロの耳に届きました。4章2節によると、エボディアとシンティケという二人の婦人の間に問題があったのです。彼女達はかってパウロと共に福音のために戦った人達でした。パウロが彼女達に勧めるのは、「主において同じ思いを抱きなさい」ということです。

どうして教会の中で不一致が生じるのでしょうか。例えば人と人との性格が違うからなのでしょうか。背景の違いゆえに不一致になるのでしょうか。これが今日教会の内部に不一致が起る原因でしょうか。実は教会は罪人の集っている所です。罪人の集りであるから問題が生じるのです。しかし福音にふさわしい生活のためには、不一致の問題はどうしても取り除かねばなりません。パウロはエボディアとシンティケの名前を挙げて一致の勧めをする前に、クリスチャンの生き方の真理と一致を保つ秘訣について教えています。

 

不一致の原因となるものは何でしょうか。

まず利己心です。

利己心と一致とは正反対です。これは「自己中心」と言うこともできます。党派心・野心とも訳せる言葉です。自己中心的な人は自分の考えや意見に固執したり、自分の味方を作ろうと人々に働きかけたりするからです。クリスチャンの中でも、信仰の熱心さと自己中心的な熱心さとがいつのまにかすり替えられてしまい、サタンの手の中に陥る人がいるのです。これは注意しなければならないことです。

第二は虚栄心です。

虚栄心も不一致の原因になります。虚栄心はこの世の栄光であり、この特質は面子ばかりを重んじて人前の誇りを求めるのです。虚栄心を求める結果は私達が公正の心を失って、真理に基づく正しい判断を失ってしまうのです。利己心と虚栄心は福音にふさわしい生活をそこね、教会の一致を妨げる原因なのです。

第三は傲慢です。

「へりくだって互いに相手を自分よりも優れた者と考え」、この聖句は信徒に肯定的にへりくだって下さいと勧めています。しかし、へりくだりの反対は傲慢です。傲慢は教会の一致を妨げる原因なのです。へりくだる人の表現は互いに相手を自分よりも優れた者と考えられますが、傲慢の人は却って相手よりも自分を優れた者と考えます。そして相手を軽んじる心が生じるのです。

私達は同じ肉体を持って生活しています。互いに「強さと弱さ」を同じように持っています。しかし、もし私達がへりくだるならば、人の強さを認めて、相手を自分より優れた者と考えられます。これによって相手を尊重します。そうすれば人間関係も上手く行きます。もし私達が傲慢だったら自分の強さを強調して、自分を相手より優れた者と考え、人間関係が上手く行きません。これは傲慢のゆえに教会の一致を妨げる原因になるのです。

 

不一致の原因を取り除き、解決を与えることができる者は、第一にキリストによる励ましです。1節「そこであなた方に幾らかでもキリストによる励まし…あるなら」とあります。この意味は励ますことについて大した意味がないと言う訳ではありません。この意味は、もしキリストの中にあって、キリストの中によって、何らかの力づけ(励まし)があれば、もっと心を尽くして互いに励まし会うのです。これはクリスチャンが果たすべき責任です。

パウロがガラテアの信徒への手紙6章11節で「兄弟達、万一誰かが不注意にも何かの罪に陥ったなら霊に導かれて生きているあなた方は、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。」と言っています。柔和な心は勧める人にとって必要な態度です。主イエスは「弟子の足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗い合わなければならない」(ヨハネ13:14)と勧めました。この互いに足を洗い合うというのことの霊的な意味は、互いに勧め合い、一致の心を保つことが必要だと言うことなのです。

聖霊様が人の心を照らす方法は幾つかあります。これは神の御言葉を通して人に思い出させること、また人の心に感動を起こさせること、環境を通して神の御心を分からせること、また兄弟の勧めあるいは警告を通して教えると言うことです。

この勧め合いの生活は信徒達の責任であるべきです。これも教会にとって必要なことです。残念ながら今日の教会信徒達には、このような勧めを受け入れる人が少ないのです。メンツばかりを重んじる結果、兄弟の勧めを無視するのです。もう一つは勧める人に柔和な心と態度がなかったら、聞く人は受け入れることが難しいと言うことです。

第二に愛の慰め

信徒が一致を保つために必要な二つ目のことは愛の慰めです。全て慰めを必要とする人は、かなりの失敗者、がっかりしている人、患難の中にある人、あるいは霊的に弱い人です。人を慰めることができる人は自分を偉い者だとか勝利者、あるいは成功者と考える者ではなく、愛の心を持っている人でなければなりません。真の愛の心を人に与えることは一番力強い慰めです。ある人はイエス様を信じてからクリスチャンの愛と、この世の愛とは違うことを感じています。沢山の信徒の、主に対する愛の心がだんだん薄くなって行きます。これも信徒達の愛し合う気持ちが欠けているからなのです。

愛の慰めとは兄弟姉妹に対して愛の心を現わすことです。私はまず愛の心を持っている人に関心を持ちます。相手も同じように反応します。結果は兄弟姉妹の間に互いに愛し合う気持ちを生じさせるのです。

第三に霊による交わり

これは同じ聖霊のご支配の中で同じ霊的命の交わりを持つと言う意味です。この霊による交わりは霊的経験の分かち合い、互いにする真理の学び、励ましなど、この霊による交わりを通してキリストによる励まし、愛の慰めの道へと私達を導くのです。私達は兄弟姉妹の必要が分かったら助けに行きます。日との状況が良く分かったら誤解を避けることができて、また人の弱さを憐れむことができます。それゆえに私達にとって霊による交わりがもっと必要です。互いに主に有ってもっと親しい関係を保つ、兄弟姉妹の間に主の愛を味わうことができます。

霊による交わりによって信徒が一致を保つことができます。サタンの策略は信徒の中に壁を作ったり、誤解・偏見を招いたりすることです。もし信徒達にいつも霊による交わりが合ったらサタンに利用されることはありません。霊による交わりは教会の集会を通してうまく行くことができます。

第四に慈しみや憐れみの心

慈しみや憐れみの心は信徒が霊的信仰・経済的・身体あるいは学問・才能などにおいて自分より劣る者に対して同情と憐れみの心を持つことです。私達は罪を妥協してはいけないけれども、罪人を憐れむべきです。もし私達が罪に勝った経験があったら、その経験を通して私達より弱い人を助けることができます。批判してはいけないのです。

第五に同じ思い

2節に「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ。思いを一つにして…」この個所の意味は同じ心で、以上の勧め、慰め、交わり、憐れみの心を実行しなさいということです。どうすればこのように同じ心で実行できますか。その秘訣は5節です。「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです」とあるように、キリストにあったのと同じ心が、あなた方にもあるようにしなさい。キリストをあなた方の謙遜の模範としなさいと言うことです。これも意識的に求めることです。

イエス・キリストは神様の立場を捨てて人間と同じ姿になられました。そして御自身を無にしてまで人に仕える者となって下さったのです。そして十字架の死にまで従い、十と意義聖となって下さったのです。このキリストの模範を私達クリスチャンは見つめ続けなければなりません。イエス・キリストを見つめ続け、他の人もそうしていることを自覚し合うところにキリストにある一致が生まれてくるのです。教会の一致はイエス・キリストの模範に従うことによってえられるのです。

 

天のお父様、御名を崇めます。御言葉を感謝します。今週から私達も利己心や虚栄心ではなく、イエス・キリストの心を心として教会の一致を求めることができますように、聖霊様のお導きをお願いします。