嫁ルツと姑ナオミの信仰

ルツ記1:118

皆様からのお招きを受けて、初めてNCの地を訪れました。ここにも主を信じる日本人の方々がいて、主の福音のために主に仕えようとする聖徒達がおられると言うことに、深く感動しています。

さて、この「賛美と感謝の集い」で私がお話しようとしておりますのは、今から言うと3千数百年前の物語です。

 

姑のナオミは住んでいたパレスチナ南部のユダ地方が飢饉に見舞われたので、夫のエリメレク(わが神が王=当時イスラエルには王はいませんでした)と共に、2人の息子(兄はマフロン、弟はキルヨン)を連れて隣国モアブ(現在のヨルダン王国)に移ってきました。どのくらい経ってのことか分かりませんが、落ち着いた暮らしの中で息子達を結婚させることもできました。

10年後のナオミは自分のことを指して「私は年をとって、もう夫は持てません」と言っていますので、普通に考えると、40才の後半と言ったところでしょうか。それにしても、何ということでしょうか、家族全員の、特に子供達の健やかな成長を願えばこそ、飢饉の故郷を離れて異国にまでやって来たのです。それだのに、この外国に来て夫に先立たれ、2人の息子にまで先立たれてしまい、2人の嫁が残されるという有様です。その自分の惨めさを、彼女自身が表現しています。「もうナオミと呼ばず、マラと呼んで下さい」と。言い換えますと、ナオミ(快適)でなく「苦悩」と呼んで欲しい、と言うのです。

家内の姉は一昨年、すでに成人した娘や息子のいる1人息子に先立たれて、元気を失い体調を崩すほどでした。また、私自身にも、末の妹がこの1月に、また上の妹の主人が3月に召されるということがありました。言わば相前後する同じ世代の者が召されて行くのは寂しいことですね。

そんな思いをしているナオミは、決心して故国のベツレヘムに帰ることにして、2人の嫁とモアブの土地を旅立ちます。しかし、ナオミは道々思いました。この嫁達を連れて帰ってどうするというのか。自分達の畑は、すでに人手に渡ってしまっています。どうやって生計を立てるというのか。それよりも何よりも、このうら若い2人の嫁達の今後の人生を、寡婦として縛り付けておくつもりなのか。それはとんでもないことです。彼女はついに、嫁達に実家に帰り再婚するように、言い渡します。なかなか引き下がらない嫁達でしたが、次男の嫁オルパは、泣きながらも別れの口付けをして去って行きました。

その時、ナオミは、残っている嫁ルツに言いました。弟嫁のオルパは自分達の民モアブと、その神の所へ帰りました。あなたも自分の親元へ帰りなさいと。その時に、姑ナオミに対して嫁ルツが答えた言葉が、今日皆さんの心に刻みつけて頂きたいと私が願っている御言葉です。

「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないで下さい。

あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。

あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。

もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、

主が幾重にも私を罰して下さるように。」

ルツと夫マフロン(病いの意味)との結婚生活がどのくらいの期間続いたのか正確には分かりませんが、特定せずに「2人の息子達はおのおの妻を迎え、10年の間そこに住んでいた」と4節にありますから、このモアブに来たのは、もっと以前のことのように思われます。マフロンという名からして、幼い時から病弱な人だったのでしょう。不幸な結婚生活でした。病気がちな夫の世話に明け暮れする暮らしだったのではないでしょうか。しかし、この10年という期間に、彼女は、姑ナオミからイスラエルの神信仰を教えられ、受け入れるように導かれ、今、その信仰に堅くたって、微動だにせずに、お義母さんから離れて去るということは、お義母さんを捨てるというだけでなく、イスラエルの神との契約の交わりから絶たれるということです。この神信仰、契約信仰は、ひとりでに身についたものではなく、姑ナオミから教えられたに違いありません。

皆さんはどなたに導かれたのでしょうか。本来的には、親から子へ信仰は継承されていくべきものです。それは神様の意図しておられた筋道でした。しかし、その信仰の継承は、自動的に親から子へと継承されていくのではなく、親による信仰教育に負うところが大です。そして共同体の中で訓練されることになります。

イスラエル人でなく、モアブ人であるルツに対する信仰教育は、姑のナオミによってなされました。台所に立って、信仰教育はほどこされたに違いありません。

それにしても、ルツは素晴らしい信仰の告白を姑に返しております。死によっても姑ナオミから離れることは、神様から離れ去ることを意味しています。モアブ人が持っている信仰とは、イスラエルの神の忌み嫌う偶像礼拝であり、その中に戻って行くということは、滅びを意味しています。それだけではありません。死の彼方にある永遠の命によって生きる天の御国の生活を失うことを意味します。そして神様の裁きの下に身をさらすことになります。

だから、ルツは、あなたから離れて帰るように仕向けないで下さい、と言うのです。ナオミの行く所、それは神の契約の民が生きる所であり、ナオミが住む所、そこは神の民が住む所であり、その真っ只中に神様が臨在なさる所です。死んで終わりではない、そこから天国の永遠の生活が始まるのです。だから、ナオミが死ぬ所で私も死にます、と死んでも共に生きることを告白しています。ナオミから離れることは、主の裁きの下に身をさらすことに他なりません。どうか、あなたから離れるように仕向けないで下さい、と信仰告白をしているのです。

彼らが生きていた時代のイスラエルには、王がまだ立てられておらず、また預言者モーゼが率いていた時代とも違い、神の御言葉は民の中では、ほとんど顧みられない状況にありました。おのおのが正しいと思うことに従って暮らしていた時代です。言ってみれば、今日のように、神でなく、自分を基準にして生きる時代でした。それだけにルツの信仰告白は光を放って見えます。

ナオミはすべてを失うためにモアブの地にやって来たようなものです。しかし事実は、そうではなく、イスラエルの中にも珍しく純粋な信仰の持ち主となったルツを得たのです。ナオミが得ただけではありません。イスラエル全体のなかに光をもたらす存在となったのです。それは不思議な神の配剤でした。ルツの曾孫としてダビデが生まれ、その末に主キリストがお生まれになられたのです。

その主イエス・キリストは弟子達に仰せになりました。私はぶどうの木、あなた方は枝である。私に結ばれていない者は切り捨てられる。結ばれている者は命に留まっている。私を信じる者は死んでも生きる。生きていて、私を信じる者は決して死なない、と。

モアブの女性だったルツは、マフロンとの結婚によって幸福な生活を続けることはできませんでしたが、彼女はその結婚関係によって神の民の一員とされました。そして救い主と切り離されない関係に置かれました。この上もない幸福な生活へと高められました。そしてルツ記に書かれていますように、再婚によって地上的にも幸福な暮らしへと祝福されています。しかし何よりも、ダビデ、そしてキリストの祖先となる光栄に浴しています。

皆さんのこの地における生活がどのような暮らしであるにせよ、主イエス・キリストと結ばれることによって、永遠に生きる、誰にも奪われることのない命を与えられて生きて行かれるのです。