「神の家族」                            エペソ2:17―22

 

 パウロはエペソ第一章の中で、キリストと教会を高く挙げています。これは、理想的な教会であり、教会にあるべき基準でもあるのです。しかし、パウロは現実を忘れていません。現実の教会はどれだけ主の理想に沿わないでいることか。ですから、第二章の頭からパウロは異邦人の信者達に、まだ主を信じる前の生活はどのようなものであるかを気づかせようとしています。それは過ちや罪の中で生活していることです。霊的においても死んでいる状態なのです。そのような時は、時代の風潮を追いかけ、悪魔・サタンに支配されて、神に従わない人になっています。異邦人がそうであると同じように、ユダヤ人も神に従わず、神の怒りの対象になっています。

 私たちは神に従わない者であり、神の処罰を受けるべき者であるのですから、永遠に神と隔離されるべき者です。しかし、神の本質は、自愛(慈しみ)です。神は哀れみと愛によって、私たちを救ってくださいました。それは、私たちに何か優れているものがあるからではありません。罪の中に死んでいた私たちですらも、神は私達をキリストとともによみがえらせてくださいました。人はただ神の恵みによって救われます。また、私たちも信じることによって、新しい人に作りかえられ、キリストにおいて新しい命を得て、神と仲直りし、人々とも平和を持つことになります。それ以来、ユダヤ人と異邦人も分けることなく、キリストの中で一つになるのです。もともとユダヤ人と異邦人との間には距離がありました。一緒に宮に入って礼拝を守ることは出来ませんでした。彼らの間には隔たりがありました。今はイエスが十字架で死なれたゆえに、その壁は取り壊されました。すなわち、彼らの間にある敵意を切り離したのです。イエスの犠牲によって、彼らは平和につき合うことができ、今では同じ教会の中で神を礼拝することができるようになりました。

 ですから、私たちは誰でも人々に平和をもたらすこの良い知らせ(Good News)を述べ伝えるべきです。遠く離れている人にも、近くにいる人々にも伝え、全世界の人々がこの平和をもたらす福音が聞けるように伝えるのです。その福音によって。人々が心に平和を持ち、人と人とが平和に付き合えるようになるためです。(原文の平安と平和は同じ意味があります。)

 今、私たちが神の御前に出ることが出来る権利を持てたのは、私たちを贖ってくださった三位一体なるお方のおかげです。考えてみてください。普通の民がいつでもすぐに王様に会えますか。今、私たちはいつでもどこででもすぐに王の王、主の主にお会いできるのは、すべてキリストの十字架と、聖霊の働きによるものです。

 今日の聖書個所には、このエペソ二章の小さな結論であうると?えます。先から話していたことから、みなさんは過去、外国人、異邦人である自分が今は、イスラエルの民であることがわかるかと思います。私たちは今はもう神に選ばれた民同志で、神の大きな家族の中の一員になれました。なぜならば、私たちは神を一家の主(家長)であると認めた

のですから。

一.神の家族 (19節)

 「外国人」は国内にいる他民族の人を指します。「寄留者」は公民権のない外国人居留民

を言います。信者はキリストの中においてはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民と同じ国の人になります。言い換えれば、それは、すべての信者はユダヤ人あるいは異邦人と分けられることなく、すべてのものがともに神の国の民とされる権利に与るのです。

 {「神の家族」ですが、この神の家というのは神の教会を指して言います。信者達はただ神の国の民になる権利が与えられるだけでなく、お互いの間には親密な関係が出来るようになります。すなわち、「家族」の関係です。このことから、信者達の間に起きた困難や誤解はすべて家族の方法で解決するものだとわかります。家族に対して愛と希望をもって、忍耐深く忠告するのです。決して相手を滴として対処しないようにするのです。

 本のび11節のはじめから、信者達がどのようにして神の家族になれたか、その過程について注意してください。すなわち、教会が建てられる過程でもあります。そして、除々に信者達の親密な関係についても説明しています。

 「神の家族であり、」というみことばを教会に対して言うならば、①お客さんになって、他人に仕えられるのを待たないこと。家族である本分と責任を果たすべきです。②互いの間に(ある)愛を保つこと。どうすれば家がリラックスな雰囲気を持ち、仲むつまじくなれるかを考えることです。③霊的な命の年長者と年少者との順序に従って互いに仕え合うこと。教会に順序を持たせるためですが、階級をつくってはなりません。④心を合わせて、家を繁栄させていくこと。

二.キリスト・イエスご自身がその礎石(かなめ石)20節

 信者はただ神の家になるだけでなく、主の神殿になるのです。この神殿の土台は「使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身である」(2:20)と書いてあります。

 「使徒や預言者」という土台というのは、使徒や預言者達によって証しされた真理と教えです。預言者はキリストを預言し、使徒はキリストを証ししています。神は彼らを通して啓示された聖書の真理こそ、教会の信仰的な土台です。そして、イエス御自身がこの神殿のかなめ石で、最も重要?な土台です。

 「使徒や預言者」という言葉は、神が教会にお与えになった二種類の賜物に言い換えることが出来ます。(四章11)使徒の賜物で最も明らかなものは新しい教会を建てる・・・開拓伝道ということです。現代の教会で言えば、それは宣教師の働きになっています。預言者の賜物は聖書の解説、信徒の訓練です。現代の教会で言えば、それは牧師と教師達の仕事?です。教会を建てるのに、この二つの賜物が最も基本的なものに?ます。

 使徒と預言者の真理についての教えはもちろん必要ですが、かなめ石はもっと重要です。イエスキリストこそかなめ石です。牧師も宣教師も教会の発展に影響を与えます。しかし、それらはみなかなめ石ではありません。イエスの降誕、死と復活、そして昇天、再臨、それらが私たちの信仰にとってのかなめ石です。イエスキリストがなければ、教会は成り立たないということを忘れないでください。

三.聖なる宮への成長 21節

 教会がもし主の聖なる宮であることを示したいならば、使徒達は必ず建てられなければなりません。しかも、主によって組み合わされて成長しなければなりません。

 「建てられる」というのは、自由に独立し、自分で選んだりできないことを言います。主の御計画によって兄弟姉妹と一つになって主に仕えることです。

 「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊?です。務めにはいろいろありますが、それをお与えるになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。」(コリント第一12:4-6)

 教会が聖なる神殿となるには、使徒達もともに建てられなければなりません。真理において謙虚に学び、命において成長を追い求め、心から喜んで主の導きに従うことからはじめて他の器官と組み合うようになります。

 使徒ペテロは自分の書簡の中でも似たような教訓を書き残しています。「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを?通して?げなさい。」(ペテロ第一2:5)

 これらの生きた石は?人さんの配置に従って、喜んで自分に与えられたポジションに着き、他の生きた石と組み合わされて、聖なる神殿になっていかなければなりません。

 「聖なる神殿となります。」は、たえず神に建てられ、たえず生長(育ち)、成長するという意味です。いつ育つことをやめられるでしょうか。永遠に止まらないもので、主の最後の日が来るまで続きます。成長はどの程度で完成されるでしょうか。神の宮、神の聖なる場所になるまで続きます。これは、使徒個人個人について言っていることですか、それとも教会全体ですか。エペソ4:13「成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」「成熟した人間となる」のは個人を指し、「キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」は教会全体を指します。ここでは教会全体について言っています。パウロが心配しているのは、異邦人が主を信じた後も異邦人の教会、ユダヤ人の教会、今では日本人教会、中国人教会、アメリカ人教会などを分けることです。しかし、これらの教会は全てイエスの体です。教会は一体なるものです。この体は主において聖別され、主に用いられるようになります。この聖なる神殿は主において、建てられ、神の住まいとなり、聖霊様が御自分の民とともに住まわれる場所でもあります。?そして全ての民たちの祈りの家となります。(マタイ21:13)

 

結論 (22節)

 教会が神に喜んで住んでいただく聖なる神殿になるためには、長い期間建てられる事が必要です。だから、私たちは落ち着いてそして忍耐深く神のなさるわざを待ち望まなければなりません。エペソー章では神のみこころや神の時、神の計画・・・に触れています。考えてみてください。エペソ二章の初めから、私たちは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのですが、後に神の家族となり、神の神殿として建てられるようになると言っています。このような大いなる変化はどこから来たのでしょうか。神が世を創造される前から定められていた贖いの御計画からではないでしょうか。そうであるならば、私たちも頭を上げ、信仰を持って、栄光なる主が来られるのを迎えましょう。そして、他の人々にも神のご栄光が見えるようにしましょう。

祈り:

 全能の父なる神様

 あなたのみことばとお約束を感謝します。私達はもともと罪人で死ななければならないものでした。そのような私達のためにイエス様をお遣わしくださって、どうもありがとうございます。主よ、あなたは私達人類の罪を担い、私達の罪のために十字架で死なれ、尊い血潮で洗い清めてくださいました。そして、私達に神の子どもとなる身分をお与えくださって、心から感謝いたします。

 主よ、どうか主の子供である私達が、いつもいつもあなたの家を思い、家を守り、家のなかであなたに仕えることで学んでいくことができるように助けてください。

 主よ、どうか、あなたのみことばが私達の生活の力となりますように、それによって、前に向かって歩めますように。

                                                        主イエスキリストの御名によってお祈りします。

                                                                                                  アーメン

                                                                                    李志堅